Fairness2011-04-02

あの地震のとき、コメント寄せてくださってた方がいらしたことに今ごろ気が付きました。私は無事にやっています、どうもありがとう。

コーエン兄弟の最新作『トゥルー・グリット』があまりに素晴らしかったので、ちょっと感想を書き留めておきます。

チャールズ・ポーティス原作のこの西部劇は、1969年にジョン・ウェイン主演で一度映画化され、ジョン・ウェインに念願のオスカーをもたらしたそうです。私は69年版は観ていません。十九世紀末のアーカンソー州、父を殺された十四歳の少女が、ならず者すれすれの保安官とはぐれ者のテキサスレンジャーとともに父を殺害した犯人を追ってチョクトー族の居留地に足を踏み入れるという物語です。

本題に入る前に、コーエン兄弟の前作”No Country for Old Men”について話をさせてください。あの話は一九八〇年代のニューメキシコとテキサスが舞台でした。偶然マフィアのカネを手にした男と、彼を執拗に追いかける地獄の死者のごとき殺し屋と、行きがかり上その二人を追いかける老保安官の物語です。物語をドライブするのは男と殺し屋ですが、原題の示すとおり、老保安官と彼の住む世界の物語でした。保安官は冒頭で年端もいかぬ少年の犯した非人道的な犯罪について回想し、彼にはもはやこの世界は理解できないとその呵責ない残酷さを語ります。保安官の気も知らず、恋女房と静かに暮らしたかっただけのはずの男はそれこそ手負いの獣のように日々を生き、そして殺し屋は、何の記憶も感傷も根っこも持たず、ただそれだけを使命として生まれ落ちたかのようなためらいのなさで暴力を振るいます。殺し屋には動機らしい動機がありません。カネにも権力にも、女にも興味はない。たまたま立ち寄っただけのガソリンスタンドの店主に殺し屋は言うでしょう、「コインでお前の命を賭けよう」と。生まれてこの方ギャンブルなどしたことがないと言う店主に殺し屋はさらに言うでしょう、「望むと望まざるとに関わらず、この世界に生まれ落ちた瞬間からお前はすでに賭けているんだ」と。Call it, friendo. その店主が生まれ落ちた世界とは、老保安官に理解はおろか受け入れることもできない世界です。

ところで『トゥルー・グリット』の主人公である少女マティは、父が殺された町にやってきてまず葬儀屋へ行き、いきなりカネの交渉を始めます。電報で聞いていた金額とずいぶん違うじゃないの、と言って。それから亡き父の仇を取るために保安官を探し、「父を殺した犯人を縛り首にしたいの」と言うでしょう。

人によっては、マティの言動はずいぶんかわいげのない、西部劇の主役らしからぬものに映るようです――――実際『トゥルー・グリット』にキャスティングされたマティは、愛らしいというよりは質実剛健でしっかり者の印象を与えることを意図しているように見えます。悪く言えばヒラリー・クリントン。よくてせいぜい、二番目の夫と結婚していた頃のスカーレット・オハラ。

でも、コーエン兄弟の映し出す、陰鬱で寂寞とした冬のアーカンソー州で、マティが小さな身体を張って体現するものは、ある意味では小賢しい人間の社会の法律や商慣習だけではないでしょう。むしろ法と秩序の最良のものとしてのフェアネスと、それに対して賭金を置こうとしたアメリカ合衆国の理想そのものであるかのようです。…もちろんマティは、冬の森の中で暴力に打ちのめされ、法と秩序でさえ太刀打ちできないものを目の当たりにし、みずからの無力に泣くことになるかもしれませんが。

カネで保安官を雇おうとし、何かというと「いい弁護士を紹介するわ」と言うマティは、確かに、たかだか人間が作り出しただけの社会の基礎がすべてに通用するものだと愚かにも信じているかのようです。マティは父を殺した犯人に復讐したいのではなく、彼女の父を殺したその罪において裁きを受けさせたいという。自分より圧倒的に力の強いものを前にしてもマティは怯むことを知らず、一心にそれを訴える。あまりに真剣に訴えているうち、彼女は知らずある一線を超えてしまうでしょう。

”No Country for Old Men”の殺し屋ならば、そんなものに賭金を置くなら好きにすればいいというかもしれない。どのみち賭けているのだし、どのみち世界は彼女の手に負える代物ではないし、法でさえ仮初のものにすぎない。ですが、それはこの世界において人が生きていくために生み出したもっとも崇高なものでもあるのです。複数の人間がそれぞれの役割を果たしながら、ひとつの共同体を形成する。できればより良い共同体であってほしい。それに…アメリカ合衆国がそもそも、理念に基づいて建国された唯一の国ではありませんか、法と秩序のフェアネスを信じずに何に賭金を置くというんです。だからこそ百ドルで雇われた保安官と生意気な小娘に腹を立てていたテキサスレンジャーが、彼女に力を貸すでしょう。結末は本当に悲しくて美しい。

余談ですが、マット・デイモンは今もっとも恵まれている俳優ですね。クリント・イーストウッドとポール・グリーングラスという二人の監督に気に入られているだけでも恵まれすぎなのに、この上コーエン兄弟ですか。ポスターも予告編もまともに見ずに鑑賞したので、マット・デイモンが演じた役はてっきりジョシュ・ブローリンがやるんだと思ってました。

安さ2011-04-27

90年代から00年代初めのフィクションというと、『エヴァンゲリオン』とか世界系などの単語を思い浮かべる向きも多いかと思いますが、あまり目立たないところではパルプ復権の時代でした。パルプとはアメリカで50年代ごろまで盛んだった低俗な大衆向け小説誌で、どぎつく煽情的なのが身上、とくればネタはもちろん暴力と死とセックスです。パルプ復権のきっかけを作ったのはもちろんタランティーノ『パルプ・フィクション』でしたが、日本ではちょうどジェイムズ・エルロイのL.A.四部作が訳されてノワール小説なんて言葉が流行ったのもあり、パルプ系の作家が再評価されたり、新訳が出たりもしていたものです。

ジム・トンプスンは中でも抜きんでた評価を獲得した作家です。しかもこの人の場合、大御所が別名でパルプを書いていたとかいうのではなくて、ほとんどパルプ専門。『ポップ1280』『残酷な夜』『死ぬほどいい女』そしてこの『内なる殺人者』と、道具立てだけ見れば安っぽいことこの上ない小説が、それだけではない何かを感じさせるところがあって、S・キングやS・キューブリックが絶賛したという評判に加えて「雑貨屋(と書いてダイムストア)のドストエフスキー」なんてコピーがついていました。

『内なる殺人者』の主人公ルー・フォードは、テキサスの田舎町で保安官助手を務める地味な好青年ですが、町外れに住む娼婦との出会いから坂道を転がり落ちていきます。ジム・トンプスンは一人称でこの保安官の凶行を描いていくんですが、このルー・フォードが何で「これはただのパルプじゃない、実存主義的に凄まじい」と思わせるのかというと――――間抜けだからではないかと。間抜けというと語弊がありますが、スリリングでドラマチックな狂気というよりは、普通に世俗的な、安いロジックが現実的すぎて不気味、というタイプです。

…という流れからすると、なぜ今になって『内なる殺人者』を映画化するのか。というところがまず疑問です。しかもマイケル・ウィンターボトムはちょっと高級すぎです。『ウェルカム・トゥ・サラエボ』とか『ひかりのまち』じゃないですか、ウィンターボトム。どう見ても、安いパルプフィクションの素養ではないと思います。ケイシー・アフレックもあんまり安くない。

でも、娼婦ジョイスを演じたジェシカ・アルバと、幼馴染の恋人エイミーを演じたケイト・ハドソンが、どっちも素晴らしい。ジェシカ・アルバの「学年でいちばんかわいいヤンキーの女の子」みたいな風情がたまらないですね。対するケイト・ハドソンの「その辺にいる美人の上限」なところとか。ジェシカ・アルバのスパンキングシーンだけを目当てに観る人もきっといるんでしょうねえ。