安さ2011-04-27

90年代から00年代初めのフィクションというと、『エヴァンゲリオン』とか世界系などの単語を思い浮かべる向きも多いかと思いますが、あまり目立たないところではパルプ復権の時代でした。パルプとはアメリカで50年代ごろまで盛んだった低俗な大衆向け小説誌で、どぎつく煽情的なのが身上、とくればネタはもちろん暴力と死とセックスです。パルプ復権のきっかけを作ったのはもちろんタランティーノ『パルプ・フィクション』でしたが、日本ではちょうどジェイムズ・エルロイのL.A.四部作が訳されてノワール小説なんて言葉が流行ったのもあり、パルプ系の作家が再評価されたり、新訳が出たりもしていたものです。

ジム・トンプスンは中でも抜きんでた評価を獲得した作家です。しかもこの人の場合、大御所が別名でパルプを書いていたとかいうのではなくて、ほとんどパルプ専門。『ポップ1280』『残酷な夜』『死ぬほどいい女』そしてこの『内なる殺人者』と、道具立てだけ見れば安っぽいことこの上ない小説が、それだけではない何かを感じさせるところがあって、S・キングやS・キューブリックが絶賛したという評判に加えて「雑貨屋(と書いてダイムストア)のドストエフスキー」なんてコピーがついていました。

『内なる殺人者』の主人公ルー・フォードは、テキサスの田舎町で保安官助手を務める地味な好青年ですが、町外れに住む娼婦との出会いから坂道を転がり落ちていきます。ジム・トンプスンは一人称でこの保安官の凶行を描いていくんですが、このルー・フォードが何で「これはただのパルプじゃない、実存主義的に凄まじい」と思わせるのかというと――――間抜けだからではないかと。間抜けというと語弊がありますが、スリリングでドラマチックな狂気というよりは、普通に世俗的な、安いロジックが現実的すぎて不気味、というタイプです。

…という流れからすると、なぜ今になって『内なる殺人者』を映画化するのか。というところがまず疑問です。しかもマイケル・ウィンターボトムはちょっと高級すぎです。『ウェルカム・トゥ・サラエボ』とか『ひかりのまち』じゃないですか、ウィンターボトム。どう見ても、安いパルプフィクションの素養ではないと思います。ケイシー・アフレックもあんまり安くない。

でも、娼婦ジョイスを演じたジェシカ・アルバと、幼馴染の恋人エイミーを演じたケイト・ハドソンが、どっちも素晴らしい。ジェシカ・アルバの「学年でいちばんかわいいヤンキーの女の子」みたいな風情がたまらないですね。対するケイト・ハドソンの「その辺にいる美人の上限」なところとか。ジェシカ・アルバのスパンキングシーンだけを目当てに観る人もきっといるんでしょうねえ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://cineres.asablo.jp/blog/2011/04/27/5827505/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。