ピーキー過ぎてお前にゃ無理だよ2010-12-05

…と言ったのは金田正太郎。

いやまさしくそんな一年だった。もう12月かと思えば時間が過ぎるのはあまりに早いが、このプロジェクトが始まってからたったの6ヶ月かと思うと…長い。あまりにも長い。家族や友人には過労を心配されているが、今のところ胃腸をやられたくらいでまだまだ健康である。この労働時間でこのくらいの疲労度だとすると、過労死する人って本当にどれだけ働いているんだろうと不思議になる。

さて週末、久々に会う友人と銀座~丸の内のフレグランスめぐり。ただのショッピングのはずが、気がついたら次から次へとセレクトショップやデパートの香水売り場を回っていた。今年の冬はALLURE HOMMEのEdition Blancheで決まりのつもりだったが、Penhaligon'sのOPUS 1870があまりにも好みでぐらっと来た。いかにもクラシックな男性向けの風情でつけこなすのが相当難しそうだったのと、本国で50GBPほどのボトルがJPY12,600という値段の問題さえなければ即買っていたかも。

香水関連で最近目にとまったのはこのニュース。香水のコピー製品が出回っているというのも面白いニュースだが、ロレアル・パリは香水を芸術の形態として分類すべきだと裁判所に報告を提出しているというのが興味深い。他のどこでもなくフランスの裁判所がどういう判決を出すのか、ちょっと興味がある。

奴らには何もやるな2010-10-23

10月も半ばを過ぎた。気がついたら終わっているに違いない。今までだって何度も修羅場はあったが、今回のは長い、それにヘビーだ。何度か小休止のような時間もあったが、思い出せる景色はまだ夏だった頃のものだったりする。

先週、同僚の男性二人とトラットリアのランチを食べながら、彼らが口ぐちに言うことには、今の私のような立場では絶対に働きたくないそうだーーーーま、言いたいことはわからないでもない。打っちゃられた約束、不義理を重ねるプライベート、土曜日の夜中に電話会議、日曜日の早朝に報告書、平日は果てしなく長い。ちょっと報われなさすぎですよと彼らは言う。そう、報われないんだから、売っちゃいけないものもある。

平岡正明はかつて「身もこころも知慧も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな」と言ったが、その意味がようやくわかってきた。こういう状況に一定期間置かれていると、まず体力が持たなくなってくるし、精神的にも疲労がたまってくる。多くの人が次に売り渡すのが感情だ。それは、何でおればっかりこんなに働かなきゃいけないんだという悲嘆であったり、あいつさえいなければという呪詛であったり、また余計なこと言いやがってあの野郎という苛立ちだったりする。よくよく考えると当たり前のような気はするが、感情はそのほとんどが外の世界、特に誰かしらの他人に向けられている。人を呪わば穴二つ。そうした感情を燃料にして仕事をすると、やがて、ボディブローを食らい続けたボクサーがある瞬間ふと糸が切れたように崩れ落ちるのと同じやり方で、気がついたら膝をついていることになる。人はゆっくりと時間をかけて魂を売り渡す。そして買い戻すにはそれ以上に長い時間がかかる。

そういうのを目にするのも初めてではないが、今回のは長い、それにヘビーだ。私にも彼に手を差し伸べる余裕はなかった。

読書中2010-08-14

一日のほとんどを仕事に費やしていると時間の流れがよくわからなくなる。考えてみれば二週間くらい前から腑抜けになりかけている気がするが、状況は少し落ちついただけで、まだまだやるべきことは大量にある。調整計画打ち合わせ、リソースの調達にスケジュールの変更、できあがってきたドキュメントのレビュー、でも何よりもまず、ちょっと頭を冷やして考える力を取り戻すことだ。この数ヶ月プロジェクトの立ち上げに関わっているが、とにかく今週を乗り切ることを考えるという状態になってしまっていた時期があるし、そういうときに下した判断のいくつかはまずい判断だった。

ところで、こういう状態になると、仕事以外の部分で時間が流れるのが極端に遅くなる。メールの返事を忘れていたことに気がつくのに一週間、書かなきゃと思って二週間、という具合に。一ヶ月近く前のエントリで書いたウォール街ネタはまだまだマイブーム(って言葉は定着したってことでいいのかね)はまだまだ続いており、というか普段の水準から考えると始まってもおらず、アンドリュー・ロス・ソーキンの"Too Big To Fail"をそろそろ半分まで読んだところだ。

『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』の題ですでに邦訳もあるこの本は、2008年のリーマンショックについて200人以上に行ったというインタビューの集大成で、財務長官ポールソンやリーマンCEOのリチャード・ファルド、NY連銀総裁ガイトナーほか、きら星のごとき金融業界の大物たちが取った行動について、半ば小説仕立てで描き出している。リーマンショックに至った金融システム自体についての説明や考察はほとんどないので、CDSだの流動性だのモーゲージ債券だのを知りたいなら別の本を読んだ方がいい。未曾有の危機を前にしていかに人々が戦ったかを描いているという点で、ほとんど歴史小説のようだ。私は普段、歴史小説をほとんど読まないんだけど、この本は例外的に面白く読み進めることができていて、歴史小説が苦手だと思っていたのは、棚上げにされている事実性とフィクション性の境目の問題だと思っていたのは実は違ったんじゃないかと感じてもいる。

しかし…仕事以外のアウトサイドを取り戻したいときに読んでいるのが、危機に際して昼も夜もなく奔走する人々の話だとは。

序盤、様々な人物が危機に気がつく辺りはサスペンスフルに楽しめたが、Chapter 12まで読み進めて2008年の9月の初め、ファニーメイとフレディマックが財務省の管轄下に入ったところで、状況のあまりの厳しさが少々つらくなってきた。この月リーマンが辿る運命はすでに知っているわけで、ディック・ファルドが韓国産業銀行との交渉を破綻させるところなんて読んでいて何とも言いようがない。たぶんもうちょっと読み進めると、誰ひとり事態の全体像を把握できないし誰にも止められないカタストロフが、いっそ爽快に感じられるんじゃないかって気もするが。

A Muckraker2010-07-18

そんでまた一週間が過ぎた。三連休はすべて仕事だが、少なくともちゃんと眠る。

アメリカでは定期的にウォール街内幕暴露もののヒット作が出るが、その系譜をまとめて整理したいなあとちょっと考えている。今の仕事が金融関連なのもあって、まあ勉強にはなりゃしないけど、そういう本の方が読んでて楽しいし。景気のいいときには「トップトレーダーに学ぶ」本が多く、リーマンショックみたいな出来事の後では「あの時あそこで何が起こっていたのか?」本になる。最近だとリーマン・ブラザーズに勤めていた青年が手記を出していた。出版年月日を金融業界の年表とつき合わせてみれば結構はっきりと傾向が出るだろう。

考えてみれば私はギャンブル本が好きなので、『ギャンブルトレーダー』が言うようにトレーディングとギャンブルが似ているならば、ウォール街内幕本が好きなのも当然だ(この本は今ちょこっとずつ読んでるが、本当は一気読みしてついでにホールデムやりたい)。ちなみにギャンブル本だと"Hustlers, Beats and Others"とか好きで好きでもう…待てよ、サッカー好きじゃないけどサッカービジネス本とかも好きだな。要は虚実いりまじる世界の内幕本が好きだということか、今気付いた。

秘密には力がある。というのは、吉野朔実の『恋愛的瞬間』(今では読まなくなっちゃった吉野朔実のオールタイムベストを選ぶなら3位には確実に入る)のキャッチフレーズだが、知らない内幕っていうとそれだけで虚実いりまじって面白いところはある。きっと今私が働いている会社の内情だって、書く人が書けば面白くなるんだろうな。もしかしたら私が読んでも面白いかもしれない、末端は知らないことが多いし、社内の噂話に触れる環境にもないから。そういえば『金融大狂乱』というリーマン・ブラザーズ内幕本の著者は、例のサブプライムローンとはぜんぜん関係ない部署にいたそうで、危機の前から「ちょっとやばいんじゃないの」という流れがあったという話が出てくる。あれを読んで「そんな部署もあったのか」と思った元リーマン社員だっていてもおかしくない。

ずーっとひとつのプロジェクトにしかいないことの弊害はアウトサイドがなくなることだ。だからこういう本ばっかり読みたくなるのかもしれないが、それで、少しは補えていると思いたい。

Do It All Over Again2010-07-11

気がつけばはやぶさも帰還していたし、夏至はとっくに過ぎ去って、七夕も終わった。W杯は知らないうちに始まって知らないうちに終わろうとしている(あやめさんに見せようと思ったLouis Vuittonの広告はThe Economistから破り取ったままクリアファイルで書類に埋もれている。酒場でサッカーゲームに興じるジダンとペレとマラドーナ)。プロジェクトを掛け持ちしながら新しいプロジェクトの立ち上げに参加する六月がかなり忙しい月になることは予想されていたのだけれど、家主が倒れて入院というアクシデンタルな出来事が重なって、やらなければいけないことに両手を引っ張られ無理やり走っていたような気分だ。ようやくコントロールを取り戻しつつある――――とは言えまだ終わっていないけれど。八月までかかりそうだ。

本当はこういうときはもっと書いた方がいい。他愛ない日常的な雑感なり夜の病院での観察なり、日記でもアレなテキストでも、何だっていいから書いた方が気分的に安定して物事に取り組むことができる。書くというのは少し対象から距離を置いて整理するという側面がある。足がもつれそうに急いでいるときほどわかりやすく効果がある。一度習慣化してしまえば簡単なのだが、失ってしまうと再構築するまで時間がかかる。わかっていて一ヶ月以上が過ぎてしまったから、これから一ヶ月か二ヶ月かけて再構築するつもりだ。

何か書こうかなと思ってnovelist.jpに登録し、古いテキストをアップロードしたりしている(日本でもこういう形式がもっと一般的になるといいのにと思う)。たまに書くと楽しいし、考えていることをネタの形にすると少し片付いたような気分になるから、書いて気が済むなら書く方がいい。それで読んだ誰かをエンターテインできるなら文句ない。…こんなふうに少し前向きになったら『ワインバーグの文章読本』の出番だ。この本の著者ジェラルド・M・ワインバーグはIT関連コンサルタントの元祖みたいな人で、『コンサルタントの秘密』を初めとする何冊もの著作を物しており、ユーモラスで読みやすい文章とともに時折ひどく大事なことを言う。そのワインバーグの文章読本は、これが、IT系の人間しか読まないのがもったいないような本なのだ。

これとつながってはいるが、ちょっと違う話に飛ぶ。

NHKで放映している『ハーバード白熱教室』のマイケル・サンデルの著書『これからの「正義」の話をしよう』が売れているようだ。私もKindleで読んでいる。これが滅法おもしろくて、時事問題をもとに政治哲学を語っていく手法が実に見事だ。

個別のトピックはさておき、読んでいると、日常いかに思考停止しているかを思い出す。就職してしばらく経った頃、考えることを意図的に中止した事柄がいくつかある。答えの出ない問題、大雑把に言えば真善美だ。答えは出ないだろうと考えていた。絶対的に正しいものとしての神でも仮定すれば別だが、そんなものはない。それでも神なしに正しい答えを導き出すことを無限に遠い目標として置き、考え続けるべきだろうと、その前提を置いたところで考えることをやめた。やめたのは、いちいちそんなことを考えていては日常生活に支障をきたすからだ(日常生活でいちいち根本まで遡らなくてすむというのは、暫定的な正しさとしての法の大きな役割だ)。考え続けるべきだと態度だけを決めてそこでストップというのは捻くれているようだが、考えなければならなくなったらいつでも再開できると思っていた。けど、これもありがちな話だが、結構停止しちゃっていたみたいで、肩凝りみたいに固まっちゃっていたところがいろいろ出てきた。そろそろリストラクチャリングの季節だという予感がある。

記憶の食卓2010-06-03

北品川のとある有名なレストランでは、ランチのロースとんかつセットが1,800円する。なかなかいいお値段だが、値段だけのことはあって、ちょっとレアっぽい分厚いロースにパン粉を薄くまぶしたパンフライのとんかつは、さぼてんや和幸で食べるとんかつとはまったく別の何かのようだ。たっぷり入った脂までうまい。千切りキャベツはふわふわで瑞々しく胡麻ドレッシングも香ばしい。また行きたいなと思うランチである。

しかし不思議なもので、その店のとんかつをまだ食べたことのない人が「とんかつを食べよう」と思って意気込んで訪れたとしよう。ぜんぜん予想もしていなかった形で充分に満足しながら、「…とんかつ食べたいな」とさぼてんを思い出すこともあり得るのである。ディープフライの衣、食べ応えのあるヒレ肉、ぱりぱりの千切りキャベツを思い出すことが。

食べ物の記憶というのは確かにあって、それは、料理を表す単語と結びつくことがある。「とんかつ」という単語の記憶と結びついた何かを期待するなら、そのレストランの「とんかつ」は、それこそ別の何かだろう。私にとって蒸し寿司は、京都のあの商店街の寿司屋で冬場の金曜日だけ店頭売りしていた、あの蒸し寿司だけだ。鶏レバーのパテはノースロンドンのあのガストロパブを思い起こさせずにおかない。切り昆布と大豆の煮物は祖母のレシピ以外で想像できないし、食べても美味しいと感じない。よくあることだ。だけど不思議なことだ。

味覚も鍛えなければ美味しさが理解できないことはままある。レストラン評論の友里征耶はよく、巷で騒がれるレストランの「味が濃い」ことを揶揄して、「若い頃に味が濃いものばかり食べつけた業界人向けの店」みたいな書き方をする。だけど、その「業界人」には、味が濃くないと美味しく感じられないわけで、それはそれで「美味しい」という評価のひとつの基準ではあるだろう。1,800円のロースとんかつがどれほど旨くても、800円くらいのロースかつ弁当でなければとんかつを食べた気がしない、という人もいるだろう。では「味覚を鍛える」っていうのは、どこに到達することを言うんだろうか? まるで、本人の記憶と切り離されたきわめて客観的な基準としての「美味なるもの」が存在するかのようだ。科学的に検証が可能な何かのようだ。

それはなかなか面白い考え方で、いろいろと試してみたくなる。『影響力の武器』にはレストランで行う心理学実験が出てきたが、そこでは、ワインの味よりもラベルの方が「美味しい」と思うかどうかに強く影響しているようだ、という結果が出ていた。化学的な観点で行くなら、きっと世の中の食品会社が日夜励んでいるように、成分や配合を研究するだろう。実験してみてほしいのは、本人の記憶との結びつきが、美味かどうかを判断するのに、どのくらい影響しているか、だ。その結びつきがどうやって形成されるかだ。

祖母の作るより「旨い」切り昆布と大豆の煮物もきっと世の中にはあるだろう。蒸し寿司だって、言ってみれば1000円札一枚で学生に売ってくれる町の寿司屋の弁当だ。それでも、今食べたいと思う蒸し寿司はあれだけだ。

Three Years Ago2010-05-24

もうすぐ日本語版のDVDも発売になると思うが、"The September Issue"がつまらなかったのは本当に残念だった。

『プラダを着た悪魔』でメリル・ストリープが演じたファッション誌の鬼編集長ミランダ。の、直接のモデルと言われるアメリカ版『VOGUE』誌の編集長アナ・ウィンターが、2007年(リセッション前だ)の9月号を作り上げるまでのドキュメンタリー映画だ。アナ・ウィンターと言えば、マノロ・ブラニクに「あなた小物を作るといいわ」と助言したとか、名だたる世界のデザイナー達がコレクション発表前に必ず服を見せてコメントを求めるとか、ハイ&ローを最初に提唱したとか、とかく伝説の多いファッション界の重鎮である。この"The September Issue"では、9月号を作り上げるまでのVOGUE誌のファッションエディター達とアナ・ウィンターをメインに据えている。

…と聞くと面白そうじゃないか? 昨年秋に日本公開されていたことに気付かずにいて、不覚!と思ってDVDを購入するも、スルーしちゃったのも納得のつまらなさだった。この監督にはファッションビジネスという魑魅魍魎の世界に対する興味もなければ、ファッション自体に対する疑問と情熱もないんじゃないかと思う。全編、アナ・ウィンター演じる『プラダを着た悪魔』のイメージビデオみたい。

たとえば、この映画はアナ・ウィンターへのインタビュー映像から始まり、そこでアナは「ファッションには人をナイーブにさせる何かがある」というようなことを言う。その何かだ。その何かが何なのか、彼女だけが知っている秘密をほんのちょっと見せてほしいのだ。たとえば、ファッションエディター達がテーマに沿ってシューティングした美しいグラビアを、一瞥しただけで却下していく、その鑑定眼だ。どこがダメだったのか? アナ・ウィンターが選んだ写真と選ばなかった写真でどう違うのか? もし、アナが不採用にした写真が誌面を飾っていたらどうなっていたのか? …という疑問には一切答えてくれない。ただただ、アナ・ウィンターが写真を選んでいくだけだ。その写真の良し悪しがわからないのは、私の審美眼がないせいだけではないと思う----VOGUE誌のエディター達もまた、美しいとコメントするような写真なのだ。あるいは、9月号は実に800ページ近いらしいのだが、台割りが作られているのはどう見てもせいぜい100ページ程度で、つまり残りは広告のはずだ。VOGUE誌のようなファッション誌の会計事情はどんなふうになっているのか? どんな広告を打って、どんなスポンサーがつき、どんな客層に売れているのか? ファッションビジネスへの影響力と関わりはどのようなものなのか? GAPやMANGOにタクーンを紹介するだけ? 現在の地位はどのような実績で築き上げられてきたのか? ファッション誌のドキュメンタリーなのに細部はどうでもいいのかい。

アナ・ウィンター自身は文句なしにかっこいい。六十歳近いというのに引き締まった身体、すらりとした脚、隙のないエレガントな服装。一糸の乱れもないボブカットに大きなサングラス。エディター達がいかに主張しようと、マリオ・テスティーノが他愛ない会話で場を和ませようと、にこりともせずに一蹴してみせる。販売業者のミーティングや目をかけているらしいデザイナー達にはそれなりの笑顔も見せたりするが、何とまあビジネスライクなこと。残り3日で撮り直しを命じるのもやぶさかではない。とにかく仕事に全力を尽くしているのだとひしひしと伝わってくる。VOGUE誌が格好悪かったら、それは誰のせいでもなくアナ・ウィンターの責任なのだ。アナ・ウィンターが隠れて泣いてるところなんて想像もしたくない。どう考えたってメリル・ストリープよりアナ・ウィンターの方がかっこいいのだが、映画としては『プラダを着た悪魔』の方がずっと面白く、"The September Issue"がつまらない。何か悔しくなってしまうほどだ。自分を題材にした映画にもVOGUE誌を作るのと同じくらいの審美眼を見せてくれたらよかったのに!

さらにさらに、何でこの話2007年なのよ。いや2007年を扱うのはいいけど、公開は2009年なのに、2008年の経済危機以降ファッション界が置かれている状況には一切触れないというのは…片手落ちどころの話ではないでしょう。菊地成孔がマックィーンの訃報の際に述べていたところによれば「ハイモード界は現在、ショーに投下する予算もはじき出すのが精一杯という苦しい状況であり(ガリアーノ、ディースクエアド、D&Gなどが、何のセットも無い、シンプルな特設会場でショーをする。というのは、ちょっと戦前的な、異様な光景です)、そうした苦しさの中に、全く新しい、文字通り、新時代のモードが生み出されつつあり、」というこの状況をモードの法王がどう捉えているのか、ひとことも言及がないとは。己の愛するモードの世界のみをイデアとしながら、ビジネスとして成功させているところこそアナ・ウィンターの凄みだと思っていたのだが…いやもう残念。の一言。

Another Arkham Asylum2010-05-16

デニス・ルヘインの作品がはじめて映画化されたのは『ミスティック・リバー』で、これはすごい映画だった。クリント・イーストウッドが豪腕をふるっている。『グラン・トリノ』が夜明けだとすれば、夜が明ける直前のもっとも暗い夜が始まった頃で、胸苦しくなるほど重たいラストだった。その後の『Gone, Baby, Gone』はキャスティングが今ひとつだったので観ていないが、私の周囲じゃあまり話題にはならなかったので、可もなく不可もなかったんだろうと勝手に思っている。で、『シャッター・アイランド』である。

見終わったときには、お前らちょっとそこ座れ。いいから座れ。という気分だったが、時間が経つにつれ、連座すべきは映画の作り手というより日本の映画配給会社じゃないかって気がしてきた。映画の冒頭、平行な直線が斜めに見える錯視画像がスクリーン上に現れた後に「あなたの脳にだまされるな」という主旨のメッセージが表示される。だめ押しで「この映画にはいっぱいヒントがあるからちゃんと見ててね!」みたいな。あっそう、ふーん、一時期のシャマランのごとき自信じゃないの。すれた観客のハードルをさらに上げてくれる。以下ネタバレにつきご注意あれ。

で、まあ、オチのどんでん返しは全然たいしたことはないのね。少なくとも驚かない。驚かないどころか、これはどんでん返しを楽しむ類の映画ではないとさえ思われる。確かにちょっと意味深なラストではあるし、まあ、冒頭に提示されたミステリーの解決方法としてはどんでん返しなんだが、始まって三十分もすればこれが「信頼できない語り手」の話だってことはわかるでしょう。で、ネタがアーカム・アサイラムですよ。オチなんかすぐに見えるでしょうが。この話、謎解きじゃなくて「俺が正しいと思ってることをみんなが違うと言うんだが何が本当のことなんだろうかどうして頭が痛いんだろうか本当は間違ってるんだろうかどうして思い出せないんだろうか」なディック的な不安のストーリーとして見るべきものなんじゃないの? 舞台が1954年で赤狩りネタは出てくるし、ナチスの強制収容所ネタも響いてくる辺り、社会背景としてはヴォネガット時代の。

1950年代のアーカム・アサイラムでディック。というだけだったら、ネタに引っ張られてきている1950年代やナチス強制収容所やらにフォーカスを当てて、うわー第二次大戦でディックはきついな。と思えたろうが、それを無理やり、要りもしない冒頭のメッセージでミステリに焦点を当てているので、消化不良もいいとこである。それさえなければ、ダークでシャビーなアーカム・アサイラムと、天気の悪い孤島の風景で、もう少し楽しく観られたと思うんですがね。

The Blue Flowers2010-05-16

午前二時を回ったフロアは暗く静まり返っているが、よく見ると、壁際に並んだガラス張りの会議室のひとつにプロジェクターの光が青白い。白い壁に大写しになったパワーポイント上の文字が、マネージャーの発するコメントに合わせてリアルタイムで修正されていく。言葉尻を拾われないように、メッセージラインを損なわないように。あるいはスピーカーズノートにメモを追加していく。そこ明日までに確認しといてよとかそういう内部的なメモだ。テーブルには人数分のラップトップ、散らばった書類、コカコーラの空き缶とタリーズコーヒーの紙コップ、歌舞伎揚げの空き袋が散乱し、開け放されたブラインドの向こうで夜景が雨に濡れている。昨日も徹夜だったという若い営業の男性、手練れのマネージャー、疲労を隠せないチームリーダー。たぶん、ITコンサルのよくある光景だ。

こういう日々がしばらく続くと、インプットもアウトプットも尽きてしまい本屋に行っても何も反応できないようになるのだが、今回はそこまで行く前に終わった。いや、まだ終わってないのかな。少なくとも今日は終わった。で、昨晩さんざん大手町の丸善で迷った挙げ句に一冊も買わず、わけあって『暗闇のスキャナー』を読み返している。フィリップ・K・ディックの長編で、物質Dと呼ばれるドラッグの蔓延した近未来でおとり捜査官となった男の話。SFっぽいガジェットはほとんどなくて、ジャンキー達がだらだらと暮らしている。おとり捜査官と言ったって派手な銃撃戦や息詰まるサスペンスがあるのではない。自転車のギアの仕組みを理解できないジャンキー仲間とうろうろしているばかりだ。この物語がどうやって終わるのか知っているので、最初の何章かを読んでいると、無闇な与太話が最高にアホらしく幸福で、悲しくなる。

ところで、District 9は絶対に観た方がいいですよ。最高。

Two Weeks in Manhattan2010-04-23

二週間をマンハッタンで過ごし、さっき帰ってきた。

泊まったホテルは大きなとこで一泊二〇〇ドルから、観光客とビジネスマンしかいない。当たり前か。それ以外でホテルに泊まる理由はそうはないんだから。火山の影響で帰れなくなったというロンドン出身の黒人女性、ファッション関係のリサーチをしにきているという日本人、オクラホマから観光に来たという女性の五人組、パリから来たという大学教授。生粋のニューヨーカーは見ない場所だ。

高いビルばかりのミッドタウンでは、サイレンやクラクションはすべて反響しながら上へ抜けてくる。街全体に「マンハッタン」ってサウンドエフェクトがかかってるみたいだ。地下鉄の駅は二三丁目と一一〇丁目がよかった。割りと細めの黒い柱が無造作に並び、そこだけぽっかりと別の道に繋がっているみたいで。でも歩くのはもっと楽しい。ただロンドンでもそうだったが、かつては治安が悪かったはずのテンダーロインもヘルズ・キッチンも、今ではひとりで歩けるくらいに落ち着いている。そりゃまあ、夜中に人気のない道をひとりで通ったりはしないが。

いちばん美味しかったごはんはイースト・ヴィレッジで食べたケイジャン料理、次点で三番街のイタリアン、グリニッジ・ヴィレッジのキューバ料理。安いとこだと、パキスタン系の同僚おすすめの屋台で買ったファラフェルがうまかった。いちばん多かった夕食メニューであるところのビールが案外うまい。バドライトとかクアーズみたいなのしか置いてないのかと思ったけど、サミュエル・アダムスのドラフト、ブルー・ムーンというアメリカ製のヴァイツェンビールと、後はブルックリンラガー。パイントが安くても七、八ドルはするから、ロンドンに較べるとちょっと高い----というか、ロンドンのビールはやっぱ安すぎるんじゃないか?

本屋とCD屋がすごく少ない。マンハッタンの中だけではなくて、ちょっと離れた郊外でも、駅前の本屋みたいなものはないようだ。一応おみやげでSTRANDの買い物袋は何枚か買ってきたが、見るべき本屋は見つからなかった。昔、高橋源一郎が書いていたような凄まじい書店って、どこのことだったんだろう?

クラブの中庭で煙草を吸いながら雑談し、音楽的には日本とあんま変わんないなぁでもディープなイベントはどこでやってんのかわかんないなぁとか、取引先の男性とふざけて行ったジェントルマンズ・クラブではロシア系の女の子にラップダンスを踊ってもらい、深夜まで人通りの絶えないタイムズ・スクエアで若い観光客と一緒になってだらだらした挙げ句アイリッシュパブでビールを飲み、翌朝は六時起きで七時半から仕事の生活は終わりだ。