テクノロジー2011-11-24

『Coyboys & Aliens』の何が素晴らしいって、予告編でさえ踏みとどまれないあの出落ちっぷりでしょう。そもそもタイトルからしてオープンすぎます。カウボーイVSエイリアン! 『クローバーフィールド』みたいにみんなわかっるのに隠すような姑息なマネはしないと思えばいっそ潔いです。

この映画が茶化すのはエイリアン襲来->人類勝利! という掃いて捨てるほどあるハリウッド映画です。いちばん最近なら『ロサンゼルス決戦』がそうでした。まず強大な軍事力を持つ何かが飛来して、片っ端から人類を焼き払っていきます。で、『ロサンゼルス決戦』なら、米海軍の一個小隊が何かごちゃごちゃとやってるうちにエイリアンを殲滅するわけでして。
この映画の場合、それは馬に乗ったカウボーイ達が回転式の小銃と散弾銃とで成し遂げます。まあネタバレでも何でもないと思いますけど、カウボーイが勝って終わる話です。ちょっと待ってよーカウボーイが勝てるわけないじゃない! と一瞬でも思ったら製作者の思惑通りの反応でしょう。

われわれ人類は、民間人なら五分間成層圏を離脱するだけで日本円にして数千万円を払わなければならない段階にあります。ちょうどメアリー・ローチの”Packing for Mars”の日本語訳『わたしを宇宙に連れてって』が出たところですが、あの本を読むと人類が宇宙に出ていくために解決されなければならない問題がどんなに高い山を形成しているかよくわかります(めちゃ面白い本です)。はやぶさが感動的だと言ったって行って帰ってきただけで、つまり行って帰ってくること自体が偉業なのです。軍事衛星は確かに強力な武器ですが、あれはあくまで地球上の話であって、外に行こうなんて考えちゃいない。宇宙ステーションもしかり。今のところ、成層圏より遠いところから人類にもたらされる被害としていちばん気にすべきは小惑星クラスの巨大な隕石の衝突でしょう。
それをですね、何千光年の彼方から地球に向けて斥候を派遣し、その間の兵站をコントロールして、あまつさえ戦果を持ち帰ろうという奴らが存在するなら、何で2010年代の海兵隊一個小隊なんぞが勝てますか。逆に言うとこうです。たかだか2010年代のテクノロジーで勝てる相手なら、カウボーイが勝ったっていい。

というわけで『カウボーイズ&エイリアンズ』は、数多のSFエイリアン映画の「それは言わない約束でしょ」を逆手に取った馬鹿アクション映画で、それ以外の何物でもなく、というのは、この映画の物語は徹頭徹尾「よくあるエイリアン映画の要素+よくあるアクション映画の要素」でできてるからですね。いや、いいんじゃないでしょうか、たまにはこんな映画があっても。惜しむらくは「それ以上の何か」がないところで、「SF的な何か」で『第9地区』は軽く扱えないし「西部劇的な何か」で『トゥルー・グリット』も難しいでしょうが、テクノロジーのネタが入ってもよかったかなあとは思います。

西部劇はまだ石炭の時代の話です。車もなければ電話もない。電力事業の登場にはトーマス・エジソンの登場を待たねばなりません(エジソンは世界で初めて電力会社を創設した人でもあります。当時、発電所はマンハッタン島の南端にありました)。十九世紀というと、もはや最先端の数学や物理は一般人にはかなり難しい段階に入っていますが、応用科学はそうでもなくて、身の回りにある道具たちはまだまだ仕組みを理解できたのではないかと思います。 一方現代では、たとえば水洗トイレひとつ取っても、その原理をきちんと図示することのできる人はごく少数です。レバーを押すとどうして水が流れるんでしたっけ? あるいはテレビ。どうして電波を受信すると絵が映るんでしょうか。もっと前の段階でラジオでは? 今や必需品となった携帯電話が電話線なしで繋がるのはなぜでしたっけ? 説明できる人は少ないはずです。

仕組みを説明できないものを、理解できているとは言わないでしょう。でもわれわれは何の不自由もないし、日常生活を送る限りにおいて、それらをまるで「理解している」かのように扱っています。要は使えればいいんです―――ダニエル・クレイグが演じる主人公ジェイク・ロネガンの左腕に嵌って外れない腕輪のように。 「理解できないけど、とりあえず使える」ものをがんがん使いこなすジェイク・ロネガンは、この映画で「お前はその左腕のやつであいつらを倒せ」みたいなこと言われるくらいで、あんまり忌避されません。一瞬「いいのかなーもっと拒否反応とか、あいつらの仲間なんじゃないかとかあるでしょう」と頭をよぎりますが、いいんでしょう、きっと。だって、われわれだって、使えるだけで理解していないテクノロジーに囲まれて暮らしているわけですから。

セックスと運転2011-11-23

テレビ屋さんの作る安い泣かせと繰り返しと冗長な演出の映画が好きでないので、昨今の日本映画の隆盛が本当に喜ぶべきことなのかはかなり懐疑的です。観てもないのにディスれます。おかげでシネコンへ行っても選択肢が少ないったら。『ワイルドスピード MEGA MAX』の観客になぜか年配の人が多かったのも、ひとつには選択肢の少なさ故じゃないんですかね。予告編どころかポスターだけで馬鹿げたブロックバスタームービーだということはわかっているのに、意外なほど年配のお客さんが多かったです。それとも単に若者は映画を観ないのか…。

『ワイルドスピード』の1の頃には、ドミニク一家の暮らしに妙なリアルさがありました。家でのパーティのだらだらした感じとか、バーベキューの後にブルース・リー映画を観たがる男どもとか。ドミニクには確かにはっとさせられる佇まいがありましたが、あくまでヤンキーが強盗に手を染めちゃったみたいなもので、とても今作で言う「犯罪者のプロ中のプロ」には見えなかったものです。当時は、その部分こそアメリカのヒスパニックおよび各国の都市部と郊外に暮らすヤンキーめいた層に大受けしたんだろう、と推測していました。退屈で行き場のない日常とそれを打ち破るものとしてのカーレースの対比ですね。

…が、どうやら違ったようです。前々作や前作からの流れとしては、今回も『ワイルドスピード』的には手堅い仕事です。バカバカしいことこの上なく、水着みたいな格好でクルマに群がるお姉ちゃん達もきちんと登場し、主要な登場人物にはドライビングテクニックときれいな女の子が漏れなくついてきます。カーアクションの見せ場も前回同様たっぷりご用意。合間に仲間うちでのレースが入るのも同じです。
これが世界的にヒットするとすれば、理由は簡単に想像がつきます。クルマと女の子は、ちょっと経済的な豊かさが手に入る社会なら、すぐに男の子のドリームになるでしょう。イギリスの往年のF1レーサーであるスターリング・モスが言った通りです。「男が絶対に負けたくないものが二つある。ひとつはセックスで、もうひとつは車の運転だ」
不良漫画である『クローズ』がヘミングウェイ的というか『大脱走』的な「男の世界」を描くのに対し、こと話がバイク絡みの暴走族漫画になると必ずヒロインが登場するのもむべなるかな。

…あまりにストレートなんで、場合によっちゃBrian/Domか?と思っていたのも帳消しです。女の子たちと楽しくやってください。ブライアンの女ミアを演じるジョーダナ・ブリュースターは笑顔に愛嬌がありますが、その分美人に見えなくなるので、そこを魅力的と思うかどうかで評価が決まりそうです。ドミニクと絡む新しい女の子はよくいる白人の中年女性になりそうな顔立ちで、この先がちょっとばかり心配に。ジゼルについてはいきなり前歴モサドとか言い出して、演じるガル・ギャドットがイスラエル出身だというのを知っていると、さらにビビります。ジゼルがいちばんエッジが効いていて可愛かったです。

あそこに神様がいらっしゃる2011-08-28

私は『ウォッチメン』については「原作はアメコミ殿堂入り、映画はオープニングとコメディアンが最高」派なんですが、いちばん理解できなかったのはDr.マンハッタンがローリーの誕生の秘密を知った後に地球へ戻ってくるところでした。ローリーは、コスチュームヒロインだった母親と、一度は母親を強姦しようとしてそれ故に母が憎んでいたはずのコメディアンの子供です。それが奇跡であるとDr.マンハッタンは言うんですが…え、正直、それってよくある話じゃないんすか?
いやいや百歩譲ってDr.マンハッタンが語っているのは宇宙と生命の神秘であって個人の出来事ではない…としましょうか。この宇宙が誕生して太陽系ができあがり地球という星に生命が生まれ植物が生まれ動物が生まれ…そうして君がいるんだよ、生まれてきてくれてありがとう、みたいな。でも80年代の時点で世界の人口は50億を超えていたじゃないですか。そんなよくある話が何で奇跡なんです? たとえ100万回に1回しか起こらない出来事だとしても、100億回試せば100回は起きる計算になります。もし奇跡が確率の問題なら、充分な回数の試行を繰り返せばいいだけです(それが可能かどうかはさておいて)。Dr.マンハッタンともあろう者がそんなものに、今更?

ところで、『ツリー・オブ・ライフ』では、冒頭の二十分くらいを宇宙の誕生から生命の進化を語ることに費やします。ええええ間違えてBBCドキュメンタリーに入っちゃったのかな! ブラッド・ピット演じる父親とショーン・ペン演じる息子の葛藤の話じゃなかったの!…と思うところですが、あれは予告と宣伝の作り方がよろしくない(あるいは意図的にそうしているのかもしれませんが)。
この映画は家族のドラマというより、監督テレンス・マリックの信仰告白でしょう。余はいかにしてキリスト者となりしか。世界をどのように理解し、どのように考えているのか(たぶんBBCもどきの創世記は、こうやって世界ができてここまで来たんだよね、というマリック自身の世界観の乱暴な要訳です)。また、そのように考えるに至ったのはなぜなのか。マリックの場合はたまたま50年代テキサスの片田舎で育った子供の頃の記憶と結びついていて、そしてその記憶には、厳格だった父と、美しく優しかった母が、分かち難く刻みつけられているのでしょう。それとヨブ記。だからドラマを期待して観に行くと裏切られること請け合いです。父との劇的な和解もなければ、癒しも赦しもありません。

映像美で知られるマリックの描くテキサスが本当に美しいです。創世記がある程度は神秘的な絵になるのは当たり前で、むしろ、少年ジャックの目から見た50年代テキサスの世界が神の恩寵のようです。木々に降り注ぐ日差し、きちんと丁寧に整えられた一軒家、光を浴びて走り回る子供たちの笑い声、鳥のさえずりがいつも聞こえていて、芝生のスプリンクラーがまき散らす水滴の透き通った明るさ。一方でその世界には悪が――――と言うと言葉が強すぎるなら、悲しむべき辛い出来事が存在し、それはどれだけ善人でも防ぐことができないでしょう。自分はともかくせめて子供達だけは幸福にと願っても、それさえ叶えられることはない。近所のタイラーがプールで溺れ死んでしまったように。子供のころは散布車をみんなで追いかけたDDTが、発癌性の高さから今では禁じられているように。火事で後頭部の半分にケロイドを負った同級生のように。十九歳の若さで死んでしまった弟のように。

しかし…こんな贅沢な信仰告白はおそらく他にないでしょうね。ブラッド・ピットとショーン・ペンを惜しげもなく使って、母親役のジェシカ・チャスティンも素晴らしいキャスティング。50年代の清楚な人妻最高です。子供達と一緒になって庭で遊びながら無邪気に空を指差して「あそこに神様がいらっしゃるのよ」とは…ちょっと涙が出そうな光景ですな。

Only Human2011-06-18

『インサイド・ジョブ』は2008年の金融危機を描いたドキュメンタリ映画で、タイトルが示すとおり主張ははっきりしています――――これは金融業界の内部の犯行だ。リーマン・ショックの話? また? ていうか今さら? …と思う向きもおありでしょう。広範な議論がされ数々の著作が物された後です。マイケル・ムーアが『キャピタリズム』を撮った後です。そのラストでオバマの大統領当選を希望として描き、そのオバマが大統領に就任して二年が過ぎ中間選挙で惨敗した後です。ギリシアは危機に見舞われスペインの失業率は驚異の三十パーセントに達した後です。ですが、そこで改めて語られるだけあって、説明もクリアで的確、主張もはっきりしていてわかりやすいです。

五章構成になっているんですが、類書(本じゃないけど)と較べて特に面白いのはPart IとPart 5です。Part Iでは、80年代に始まる規制緩和の流れを語りながら、多くの金融機関が罰金を支払うことになった犯罪の数々を交え、その後リーマン・ショックでも主要な役割を果たすことになる金融機関と登場人物が手際よく紹介していきます。

Part 2からPart 4は、よくまとまっているので初めて金融危機ネタに触れる方にはお勧めします。すでに類書を読んでいれば目新しい部分は少ないでしょう(サブプライムローンを食物連鎖にたとえているのは面白いです)。ウォール街内幕本や関連本の著者が数多く登場するので、ウォール街ネタ好きの私には「おおジリアン・テット!」とか「サティアジット・ダスだー今何やってるんだろー」とか「やばいラグラム・ラジャンかっこいい」とかいう楽しみがありましたが。。。

Part 5では、ハーバード大学やコロンビア大学のビジネススクールといった学会に対して、ウォール街がいかに影響力を持つようになっているかが語られます。私はウォール街内幕ネタが好きで、それなりにいろいろ読んでいるのですが、学会との繋がりについては指摘されることが少なかったように思います。投資銀行の開発した金融商品や業界の展望について非常に好意的なことを書いていたビジネススクールの教授たちが、そのことによっていかに金銭的な利益を得ているか、というのは、考えてみれば当たり前に起こることですが―――英語で御用学者って何て言うんでしょうね――――いや怖ろしいというかなんというか。

ここからが感想です。この映画が糾弾する当の相手がインタビューに応じてくれることはほとんどありません。そりゃそうでしょう。インタビューに応じなかったという事実そのものが彼らの有罪を示しているかのようです。でも、何人かは迂闊にもインタビューに応じていますし、国会に召ばれたときの質疑応答映像などが挟まっていて、糾弾される当事者が答えに詰まる様子が容赦なく映し出されています。

お前が悪いんだと糾弾するのは簡単です。彼らは強欲で、他人のことなどまったく考えず、自分がしている行為がほとんど犯罪的だと自覚したうえで、この危機の片棒を担いだのでしょうか? どうも、そうは思えません。ただ単に彼らは上昇志向が強く、たぶん優秀で、ウォール街に職を得てそのジャングルを生き抜くことができた信じがたいほどラッキーなだけの、ただの人間に見えます。そして人は、自分の行いが悪であるとは思いたくないものです。事実悪であったとしても、そのことから目を背けていられる間は喜んでそうするでしょう。彼らはきっと、無防備で迂闊で必要以上に楽観的で頭で考えるよりも気分と直感に左右されやすいという人間的な欠点を持ち合わせた、ただの人間で、そして多くの本が指摘するところを考慮すると、おそらくは彼らも何が起こっているかはわかっていなかったのではないでしょうか。ひどいことには、善意でやっていた可能性さえあるのです。

地獄への道はここでも善意で舗装されていたように思われます。話が抽象的になりがちなのは私の悪い癖なのですが、エピクテトスを思い出しました。もしよい人間でありたいと願うなら、まず、己が邪悪であると信じることから始めよ。自己資本比率や金融機関の給与体系を規制することが解決策になると信じているわけではないのですが、レギュレーションや制度というものは、たぶん、われわれが邪悪であることを―――言いかえれば人間的であることを前提として設計されるべきなのでしょう。

主観性2011-05-27

二年ほど前でしたか、『レスラー』という映画がありました。どん底まで落ちぶれたかつての人気俳優ミッキー・ロークが、落ちぶれたかつての人気レスラーを演じる映画で、俳優本人のイメージとぴったり重なるキャスティングと、『レクイエム・フォー・ドリーム』で名前を売ったダーレン・アロノフスキーがまさかプロレスを題材に映画を撮るとは、という驚きで話題になりました。
しかし今回の『ブラック・スワン』を見るにつけ、アロノフスキーはこの方向に照準を合わせたように見受けられます。誤解を恐れずに言うならばキャスティング一発ネタ。『レスラー』と『ブラック・スワン』はよく似ています。

アロノフスキーの映画では、常に、主人公の主観に焦点が当たっています。カメラがぐらぐら揺れる系。で、物語的には、外部がほとんど出てきません。
『レスラー』を見てみます。もしこれが、「落ちぶれたレスラーの悲惨な生活とほんのわずかな救い」を語る映画だとしたら、絶対に外すべきではないだろうと思うポイントが二点あります。突然の心臓発作で倒れた後に、医療費で困るシーンがほしかったというのがひとつ。入院シーンで、80年代ヘビメタもかくやな長い金髪を切るべきだったのでは、というのがもう一点です。
心臓発作は『レスラー』の転換点となるポイントなんですが、ものすごーくあっさりしています。入院シーンは申し訳程度で、どのくらいの時間が経過したのかもわからない。『レスラー』の主人公ランディが暮らす世界の完璧な外部であるような医者も看護婦もその他の入院患者も、遠景にすぎません。彼らはおそらく、ランディを「落ちぶれたかつての人気レスラー」でも何でもなく「落ちぶれた暮らしを送るよくいる中年」としてしか扱わないでしょうが、そういう外部の世界が描かれることはありません。
「落ちぶれたレスラーの悲惨な生活とほんのわずかな救い」を扱う映画だとしたら、「なんかテキトーで現実感がないなあ」という感想を持ったことでしょう。でも『レスラー』は「落ちぶれたレスラーの心情」を扱う映画です。だから外部の世界の描写は問題にならない。どれだけの時間が経過し、どれだけの金銭的な代償があり、彼は社会的にどういう位置づけのどういう人なのか、は観客が最低限わかればいい。
誰だったか忘れましたが、『レスラー』について「プロレスは演出されるものであり八百長かもしれないが、レスラーの痛みは本物だ」というようなコメントを出していました。物語でなく、映画自体がそう言っているかのようです。悲惨な生活は演出だし、物語に穴もあるかもしれないが、そこで演じられる心情は本物だ。

『ブラック・スワン』で、美しく臆病で繊細なあまり狂気の淵を覗きこんでしまうバレリーナを演じるのはナタリー・ポートマンです。美しく気高く聡明で、しかし顔立ちにどこか幼いイメージのあるポートマンは、かつてのジョディ・フォスターみたいなポジションにありますが、『クローサー』ではストリッパー役を演じてみたりと世間の固定的なイメージから逃れたいようにも見えました。しかし『ブラック・スワン』のニナ役はぴったりのキャスティングで、世間がポートマンに持っているイメージを思いきり具現化したかのようです。
物語は相変わらず、時間の流れも外部の視点もなく、きわめて主観的です。『ガラスの仮面』なら練習の過程でブラック・スワンたる何かを獲得していくプロセスを丹念に描いてくれるでしょうが、ニナの主観ではそうではありません。印象的な出来事だけが次々と記憶されていき、出来事のひとつひとつは、客観的に見れば幼く未熟で確固たる結末を持ちません。え、そんなことで思いつめなくても…と言ってあげたくなります。落ち着いて考えてみればもっと他に選択肢があるよ、と。でも彼女にはそれが世界です。エロティックな場面がどうにも煮え切らないのも、ニナの主観としては正しい選択でしょう。ヴァンサン・カッセル演じる舞台監督も、ミラ・クニス演じるニナのライバルも、距離を置いてみればきわめて表面的ですし、母親でさえ類型的以上の意味を持っていないように見えます。
一方でポートマンの演技は最初から最後まで全開です(「こういうのが見たかったんでしょ?」くらいの開き直りがありそうです)。ニナに感情移入して映画を見たら、最初から最後までジェットコースターのごとき感情の上下動を味わえることでしょう。またしてもこう言われているかのようです。映画はそもそも嘘だが、そこで演じられる心情が本物だと感じられればいい。

…とここまで書いた上で、『レスラー』と『ブラック・スワン』のいちばん重要な違いはというと、『ブラック・スワン』は最初から「歪んだ主観」の話であることを表に出したホラーだ、という点ですね。『レスラー』ではどうしても気になってしまったディテールの甘さですが、ホラーであれば一切気にする必要はありません。すごくクレバーな選択だと思います。
しかし何でブラック・スワンにしたんでしょうね。山岸涼子でも読んじゃいましたかね。

安さ2011-04-27

90年代から00年代初めのフィクションというと、『エヴァンゲリオン』とか世界系などの単語を思い浮かべる向きも多いかと思いますが、あまり目立たないところではパルプ復権の時代でした。パルプとはアメリカで50年代ごろまで盛んだった低俗な大衆向け小説誌で、どぎつく煽情的なのが身上、とくればネタはもちろん暴力と死とセックスです。パルプ復権のきっかけを作ったのはもちろんタランティーノ『パルプ・フィクション』でしたが、日本ではちょうどジェイムズ・エルロイのL.A.四部作が訳されてノワール小説なんて言葉が流行ったのもあり、パルプ系の作家が再評価されたり、新訳が出たりもしていたものです。

ジム・トンプスンは中でも抜きんでた評価を獲得した作家です。しかもこの人の場合、大御所が別名でパルプを書いていたとかいうのではなくて、ほとんどパルプ専門。『ポップ1280』『残酷な夜』『死ぬほどいい女』そしてこの『内なる殺人者』と、道具立てだけ見れば安っぽいことこの上ない小説が、それだけではない何かを感じさせるところがあって、S・キングやS・キューブリックが絶賛したという評判に加えて「雑貨屋(と書いてダイムストア)のドストエフスキー」なんてコピーがついていました。

『内なる殺人者』の主人公ルー・フォードは、テキサスの田舎町で保安官助手を務める地味な好青年ですが、町外れに住む娼婦との出会いから坂道を転がり落ちていきます。ジム・トンプスンは一人称でこの保安官の凶行を描いていくんですが、このルー・フォードが何で「これはただのパルプじゃない、実存主義的に凄まじい」と思わせるのかというと――――間抜けだからではないかと。間抜けというと語弊がありますが、スリリングでドラマチックな狂気というよりは、普通に世俗的な、安いロジックが現実的すぎて不気味、というタイプです。

…という流れからすると、なぜ今になって『内なる殺人者』を映画化するのか。というところがまず疑問です。しかもマイケル・ウィンターボトムはちょっと高級すぎです。『ウェルカム・トゥ・サラエボ』とか『ひかりのまち』じゃないですか、ウィンターボトム。どう見ても、安いパルプフィクションの素養ではないと思います。ケイシー・アフレックもあんまり安くない。

でも、娼婦ジョイスを演じたジェシカ・アルバと、幼馴染の恋人エイミーを演じたケイト・ハドソンが、どっちも素晴らしい。ジェシカ・アルバの「学年でいちばんかわいいヤンキーの女の子」みたいな風情がたまらないですね。対するケイト・ハドソンの「その辺にいる美人の上限」なところとか。ジェシカ・アルバのスパンキングシーンだけを目当てに観る人もきっといるんでしょうねえ。

Fairness2011-04-02

あの地震のとき、コメント寄せてくださってた方がいらしたことに今ごろ気が付きました。私は無事にやっています、どうもありがとう。

コーエン兄弟の最新作『トゥルー・グリット』があまりに素晴らしかったので、ちょっと感想を書き留めておきます。

チャールズ・ポーティス原作のこの西部劇は、1969年にジョン・ウェイン主演で一度映画化され、ジョン・ウェインに念願のオスカーをもたらしたそうです。私は69年版は観ていません。十九世紀末のアーカンソー州、父を殺された十四歳の少女が、ならず者すれすれの保安官とはぐれ者のテキサスレンジャーとともに父を殺害した犯人を追ってチョクトー族の居留地に足を踏み入れるという物語です。

本題に入る前に、コーエン兄弟の前作”No Country for Old Men”について話をさせてください。あの話は一九八〇年代のニューメキシコとテキサスが舞台でした。偶然マフィアのカネを手にした男と、彼を執拗に追いかける地獄の死者のごとき殺し屋と、行きがかり上その二人を追いかける老保安官の物語です。物語をドライブするのは男と殺し屋ですが、原題の示すとおり、老保安官と彼の住む世界の物語でした。保安官は冒頭で年端もいかぬ少年の犯した非人道的な犯罪について回想し、彼にはもはやこの世界は理解できないとその呵責ない残酷さを語ります。保安官の気も知らず、恋女房と静かに暮らしたかっただけのはずの男はそれこそ手負いの獣のように日々を生き、そして殺し屋は、何の記憶も感傷も根っこも持たず、ただそれだけを使命として生まれ落ちたかのようなためらいのなさで暴力を振るいます。殺し屋には動機らしい動機がありません。カネにも権力にも、女にも興味はない。たまたま立ち寄っただけのガソリンスタンドの店主に殺し屋は言うでしょう、「コインでお前の命を賭けよう」と。生まれてこの方ギャンブルなどしたことがないと言う店主に殺し屋はさらに言うでしょう、「望むと望まざるとに関わらず、この世界に生まれ落ちた瞬間からお前はすでに賭けているんだ」と。Call it, friendo. その店主が生まれ落ちた世界とは、老保安官に理解はおろか受け入れることもできない世界です。

ところで『トゥルー・グリット』の主人公である少女マティは、父が殺された町にやってきてまず葬儀屋へ行き、いきなりカネの交渉を始めます。電報で聞いていた金額とずいぶん違うじゃないの、と言って。それから亡き父の仇を取るために保安官を探し、「父を殺した犯人を縛り首にしたいの」と言うでしょう。

人によっては、マティの言動はずいぶんかわいげのない、西部劇の主役らしからぬものに映るようです――――実際『トゥルー・グリット』にキャスティングされたマティは、愛らしいというよりは質実剛健でしっかり者の印象を与えることを意図しているように見えます。悪く言えばヒラリー・クリントン。よくてせいぜい、二番目の夫と結婚していた頃のスカーレット・オハラ。

でも、コーエン兄弟の映し出す、陰鬱で寂寞とした冬のアーカンソー州で、マティが小さな身体を張って体現するものは、ある意味では小賢しい人間の社会の法律や商慣習だけではないでしょう。むしろ法と秩序の最良のものとしてのフェアネスと、それに対して賭金を置こうとしたアメリカ合衆国の理想そのものであるかのようです。…もちろんマティは、冬の森の中で暴力に打ちのめされ、法と秩序でさえ太刀打ちできないものを目の当たりにし、みずからの無力に泣くことになるかもしれませんが。

カネで保安官を雇おうとし、何かというと「いい弁護士を紹介するわ」と言うマティは、確かに、たかだか人間が作り出しただけの社会の基礎がすべてに通用するものだと愚かにも信じているかのようです。マティは父を殺した犯人に復讐したいのではなく、彼女の父を殺したその罪において裁きを受けさせたいという。自分より圧倒的に力の強いものを前にしてもマティは怯むことを知らず、一心にそれを訴える。あまりに真剣に訴えているうち、彼女は知らずある一線を超えてしまうでしょう。

”No Country for Old Men”の殺し屋ならば、そんなものに賭金を置くなら好きにすればいいというかもしれない。どのみち賭けているのだし、どのみち世界は彼女の手に負える代物ではないし、法でさえ仮初のものにすぎない。ですが、それはこの世界において人が生きていくために生み出したもっとも崇高なものでもあるのです。複数の人間がそれぞれの役割を果たしながら、ひとつの共同体を形成する。できればより良い共同体であってほしい。それに…アメリカ合衆国がそもそも、理念に基づいて建国された唯一の国ではありませんか、法と秩序のフェアネスを信じずに何に賭金を置くというんです。だからこそ百ドルで雇われた保安官と生意気な小娘に腹を立てていたテキサスレンジャーが、彼女に力を貸すでしょう。結末は本当に悲しくて美しい。

余談ですが、マット・デイモンは今もっとも恵まれている俳優ですね。クリント・イーストウッドとポール・グリーングラスという二人の監督に気に入られているだけでも恵まれすぎなのに、この上コーエン兄弟ですか。ポスターも予告編もまともに見ずに鑑賞したので、マット・デイモンが演じた役はてっきりジョシュ・ブローリンがやるんだと思ってました。

Three Years Ago2010-05-24

もうすぐ日本語版のDVDも発売になると思うが、"The September Issue"がつまらなかったのは本当に残念だった。

『プラダを着た悪魔』でメリル・ストリープが演じたファッション誌の鬼編集長ミランダ。の、直接のモデルと言われるアメリカ版『VOGUE』誌の編集長アナ・ウィンターが、2007年(リセッション前だ)の9月号を作り上げるまでのドキュメンタリー映画だ。アナ・ウィンターと言えば、マノロ・ブラニクに「あなた小物を作るといいわ」と助言したとか、名だたる世界のデザイナー達がコレクション発表前に必ず服を見せてコメントを求めるとか、ハイ&ローを最初に提唱したとか、とかく伝説の多いファッション界の重鎮である。この"The September Issue"では、9月号を作り上げるまでのVOGUE誌のファッションエディター達とアナ・ウィンターをメインに据えている。

…と聞くと面白そうじゃないか? 昨年秋に日本公開されていたことに気付かずにいて、不覚!と思ってDVDを購入するも、スルーしちゃったのも納得のつまらなさだった。この監督にはファッションビジネスという魑魅魍魎の世界に対する興味もなければ、ファッション自体に対する疑問と情熱もないんじゃないかと思う。全編、アナ・ウィンター演じる『プラダを着た悪魔』のイメージビデオみたい。

たとえば、この映画はアナ・ウィンターへのインタビュー映像から始まり、そこでアナは「ファッションには人をナイーブにさせる何かがある」というようなことを言う。その何かだ。その何かが何なのか、彼女だけが知っている秘密をほんのちょっと見せてほしいのだ。たとえば、ファッションエディター達がテーマに沿ってシューティングした美しいグラビアを、一瞥しただけで却下していく、その鑑定眼だ。どこがダメだったのか? アナ・ウィンターが選んだ写真と選ばなかった写真でどう違うのか? もし、アナが不採用にした写真が誌面を飾っていたらどうなっていたのか? …という疑問には一切答えてくれない。ただただ、アナ・ウィンターが写真を選んでいくだけだ。その写真の良し悪しがわからないのは、私の審美眼がないせいだけではないと思う----VOGUE誌のエディター達もまた、美しいとコメントするような写真なのだ。あるいは、9月号は実に800ページ近いらしいのだが、台割りが作られているのはどう見てもせいぜい100ページ程度で、つまり残りは広告のはずだ。VOGUE誌のようなファッション誌の会計事情はどんなふうになっているのか? どんな広告を打って、どんなスポンサーがつき、どんな客層に売れているのか? ファッションビジネスへの影響力と関わりはどのようなものなのか? GAPやMANGOにタクーンを紹介するだけ? 現在の地位はどのような実績で築き上げられてきたのか? ファッション誌のドキュメンタリーなのに細部はどうでもいいのかい。

アナ・ウィンター自身は文句なしにかっこいい。六十歳近いというのに引き締まった身体、すらりとした脚、隙のないエレガントな服装。一糸の乱れもないボブカットに大きなサングラス。エディター達がいかに主張しようと、マリオ・テスティーノが他愛ない会話で場を和ませようと、にこりともせずに一蹴してみせる。販売業者のミーティングや目をかけているらしいデザイナー達にはそれなりの笑顔も見せたりするが、何とまあビジネスライクなこと。残り3日で撮り直しを命じるのもやぶさかではない。とにかく仕事に全力を尽くしているのだとひしひしと伝わってくる。VOGUE誌が格好悪かったら、それは誰のせいでもなくアナ・ウィンターの責任なのだ。アナ・ウィンターが隠れて泣いてるところなんて想像もしたくない。どう考えたってメリル・ストリープよりアナ・ウィンターの方がかっこいいのだが、映画としては『プラダを着た悪魔』の方がずっと面白く、"The September Issue"がつまらない。何か悔しくなってしまうほどだ。自分を題材にした映画にもVOGUE誌を作るのと同じくらいの審美眼を見せてくれたらよかったのに!

さらにさらに、何でこの話2007年なのよ。いや2007年を扱うのはいいけど、公開は2009年なのに、2008年の経済危機以降ファッション界が置かれている状況には一切触れないというのは…片手落ちどころの話ではないでしょう。菊地成孔がマックィーンの訃報の際に述べていたところによれば「ハイモード界は現在、ショーに投下する予算もはじき出すのが精一杯という苦しい状況であり(ガリアーノ、ディースクエアド、D&Gなどが、何のセットも無い、シンプルな特設会場でショーをする。というのは、ちょっと戦前的な、異様な光景です)、そうした苦しさの中に、全く新しい、文字通り、新時代のモードが生み出されつつあり、」というこの状況をモードの法王がどう捉えているのか、ひとことも言及がないとは。己の愛するモードの世界のみをイデアとしながら、ビジネスとして成功させているところこそアナ・ウィンターの凄みだと思っていたのだが…いやもう残念。の一言。

Another Arkham Asylum2010-05-16

デニス・ルヘインの作品がはじめて映画化されたのは『ミスティック・リバー』で、これはすごい映画だった。クリント・イーストウッドが豪腕をふるっている。『グラン・トリノ』が夜明けだとすれば、夜が明ける直前のもっとも暗い夜が始まった頃で、胸苦しくなるほど重たいラストだった。その後の『Gone, Baby, Gone』はキャスティングが今ひとつだったので観ていないが、私の周囲じゃあまり話題にはならなかったので、可もなく不可もなかったんだろうと勝手に思っている。で、『シャッター・アイランド』である。

見終わったときには、お前らちょっとそこ座れ。いいから座れ。という気分だったが、時間が経つにつれ、連座すべきは映画の作り手というより日本の映画配給会社じゃないかって気がしてきた。映画の冒頭、平行な直線が斜めに見える錯視画像がスクリーン上に現れた後に「あなたの脳にだまされるな」という主旨のメッセージが表示される。だめ押しで「この映画にはいっぱいヒントがあるからちゃんと見ててね!」みたいな。あっそう、ふーん、一時期のシャマランのごとき自信じゃないの。すれた観客のハードルをさらに上げてくれる。以下ネタバレにつきご注意あれ。

で、まあ、オチのどんでん返しは全然たいしたことはないのね。少なくとも驚かない。驚かないどころか、これはどんでん返しを楽しむ類の映画ではないとさえ思われる。確かにちょっと意味深なラストではあるし、まあ、冒頭に提示されたミステリーの解決方法としてはどんでん返しなんだが、始まって三十分もすればこれが「信頼できない語り手」の話だってことはわかるでしょう。で、ネタがアーカム・アサイラムですよ。オチなんかすぐに見えるでしょうが。この話、謎解きじゃなくて「俺が正しいと思ってることをみんなが違うと言うんだが何が本当のことなんだろうかどうして頭が痛いんだろうか本当は間違ってるんだろうかどうして思い出せないんだろうか」なディック的な不安のストーリーとして見るべきものなんじゃないの? 舞台が1954年で赤狩りネタは出てくるし、ナチスの強制収容所ネタも響いてくる辺り、社会背景としてはヴォネガット時代の。

1950年代のアーカム・アサイラムでディック。というだけだったら、ネタに引っ張られてきている1950年代やナチス強制収容所やらにフォーカスを当てて、うわー第二次大戦でディックはきついな。と思えたろうが、それを無理やり、要りもしない冒頭のメッセージでミステリに焦点を当てているので、消化不良もいいとこである。それさえなければ、ダークでシャビーなアーカム・アサイラムと、天気の悪い孤島の風景で、もう少し楽しく観られたと思うんですがね。

アドレナリン・ジャンキー2010-03-22

『ハート・ロッカー』はクリス・ヘッジスの引用で始まる。クリス・ヘッジスの著書『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき437の事柄』は戦争に関する437の質疑応答で構成された本だ。戦争および軍隊生活の実際だけではなく、憧れを抱いてしまうような友情や都市伝説めいた陰惨な話まで、戦争映画でありがちなネタの実状を簡潔に説明してくれる本で、事務的とも言える説明の連続だけど、面白い本だ。
ありがちなネタの実状がどんなふうに解説されるかと言うと、たとえばQ305。「下士官や兵卒が上官である士官を殺すことはありますか?」答えはこうだ。「どんな戦争でも、下士官や兵卒は士官を殺している。たいがいの場合、その士官が無鉄砲すぎるか無能であるために、部下の生命が危険にさらされたからだ。士官を"手榴弾でばらす"(フラッギング)という隠語は、ヴェトナム戦争中に生まれた。(中略)ヴェトナムで死んだ士官の二〇ないし二五パーセントが下士官や兵卒によって殺されたことになる。」
映画の冒頭で引用されるのは戦闘の昂揚感、ひいては戦争の中毒性についてだ。"War is drug."と言って映画が始まる。そうか、キャスリン・ビグローはクリス・ヘッジスを読んでるわけか。なるほど読んでるだろうなあ。

2004年のイラク、ブラボー中隊の危険物処理班の任期終了までの一ヶ月少々を描いたこの映画は、ドキュメンタリーっぽい映像でタイトな演出のサスペンスが続き、戦闘状態の緊張感を追体験できる戦争映画だ。危険物処理といっても『クリミナル・マインド』で出てくるような洗練されてはいるがガジェットめいたものではない。白茶けて乾いたゴミの散らばった街中に爆発物。三人一組の危険物処理班は、ひとりが爆発物の処理を行い、二人が援護する。物陰に潜んだ誰かが見張っているかもしれず、周囲に集まってくる民間人の誰かがスイッチを持っているかもしれず、タイマーがついているかもしれず、この爆発物も罠かもしれない。彼らは敵地にいるが敵の姿は見えず、爆発物という脅威だけが地獄のような日差しの下にある。いやホント、見ていて疲れるタイプのアクション映画。

物語は危険物処理班の班長の死から始まる。残されたサンボーン軍曹とエルドリッジ技術兵の新たな上官となるのは、873個の爆発物を処理した記録の持ち主ウィリアム・ジェームス軍曹で、最初の任務からとんでもない有能さと命知らずぶりを発揮して班員をハラハラさせる。ジェームスは明らかにやりすぎている。ヒロイックなところも見せはするが、はっきりと無鉄砲で、常にやりすぎで、「そんな無茶を続けていたら死んじまうぞ」というアクション映画のお約束がそのまま実現してしまいそうだ。あんなに慎重だった前の班長も後一ヶ月のちょっとのところで命を落としたのだ。彼らは最初はジェームスの好戦的な姿勢にうまく行かないが、やがては、チームとしてともに危機的状況に立ち向かい切り抜け、ちょっとした仲間意識さえ持つようになる。しかしジェームスの行動は、チームを思ってもみなかった危険に晒すことにもなるだろう。

で…これどう思えばいいのか。この映画にヒーローがいるならジェームスで、そのジェームスは明らかにコンバット・ハイの中毒だ。それだけならよくある話だが、完璧にジェームスを称揚するわけではなく一定の距離を置いた描き方をしているので、観客は単純にジェームス最高! あれぞ男の中の男! …という気分にはなれない。ジェームスよりむしろ、彼がどこまで行ってしまうのかとハラハラしながら援護するサンボーンに感情移入してしまいそうだ。この点はたぶん娯楽映画としてはマイナスになるようなところだけど、ドキュメンタリー風味にイラク戦争の追体験を提供し、ついでに戦争の現実を見たような気分になる映画としては、プラスに働いている。
で、二時間のあいだぞくぞくするようなスリルと上官としての不適切な判断と感情的な行動につき合った後で、どう思えばいいのか。戦争における英雄って結局こういう男でしょ、ってことなのか? その割りには、この映画のラストは明らかにジェームスを突き放してはいるけども、決して否定はしていないのだ。こういうコンバット・ハイ中毒をたくさん作り上げる戦争の何が楽しいの、ってことなのか? …それを、スリリングな砂漠の狙撃戦が見せ場になるようなエンターテイメントでやるのは難しい。それにジェームスは、そういう変化を描かれるのではない。登場した瞬間から最後までそうなのだ。母国での生活は図式的なくらいくっきりと、平和で慎ましいものとして描かれていて、ジェームスの人間らしい部分を強調したりはするのだが(まだ何もわからない子供に向かっての独白はいいシーンだった)。

そういう意味では、きわめてシビアな映画ながら、まだ、本当に見たくないものは出てこないある種のエレガントさがあって、そこはドキュメンタリー風の戦争告発映画としてはマイナスに働く点だけど、エンターテイメントとしてはプラスだ。いちばん見たくないのは----いちばん見たいのは、たぶん、サンボーンのような男が気がついたらジェームスのようになっている話だ。あるいは、サンボーンのような男が、国に帰って結婚して子供を作り幸せな家庭を築き上げ、しかし除隊しても仕事が見つからず、民間軍事会社に就職してイラクに舞い戻るハメになる話だ。エルドリッジのような男がPTSDと折り合いをつけられずに社会からドロップアウトする話だ。アドレナリン・ジャンキーに殉じることのできなかったジェームスが、家庭と社会の中でゆっくりと静かに狂気に染まっていく話だ。アドレナリン・ジャンキーに殉じたジェームスが、「今日は誰かを殺したい」と口走るような男になった挙げ句、戦争犯罪で裁かれ見苦しい言い訳を並べ立てるようになる話だ。この映画はそのどれでもない。

『映画秘宝』で「キャスリン・ビグローは腐女子か!?」なんて書いてあったのを見たけど、もしビグローが腐女子だったとしたら、趣味が合うようで合わないな。ビグローが好きなのはどう見てもアドレナリン・ジャンキー型だ。…それにしてもアレだな、元旦那の『アバター』もIMAX 3Dで鑑賞はしたのだが、とてもじゃないがこんなに話すこと残らなかったな。たちの悪い夢だったというだけで。