THE ECLIPSE CITY2006-03-05

 今月の末、リビア~エジプト、地中海を横切ってトルコのあたりで皆既日食が観察できる。トルコの皆既日食観察ツアーには若干名の空きが残っているらしいんだが…行きたいなあ。リビアでは砂漠の中に「エクリプス・シティ」という観測地を設けるとかで、世界中から日蝕好きが集まるのだそうだ。リビアかー。行きたいが、仕事を休めるほど有給休暇が残っていない。インターネットライブ中継はどっかでやるのかなあ?
 日蝕という現象が起こるちょうどいい位置に地球と月と太陽が位置しているのは偶然なんだろうか?月は、地球の一部が千切れて飛んでいってできたものだと昔聞いたけれど(ちぎられていったのは太平洋の底だとか)、太陽と地球と月の釣り合いが取れるちょうどいい位置は、たまたまきれいな日蝕の観察できる位置だった。美しい偶然だ。
 そういえば、今日は地元から友人がやってきており、彼女の行きたいという切手の博物館へついていった。世界各国の切手がショールームで販売されており、私も何種類か購入したのだが、宇宙関連のものばかりを集めたカタログの中に「スペースシャトル コロンビア事故の追悼記念切手」なるものがあった。乗組員たちが勢揃いした写真を一枚のシートとし、それぞれの顔写真を切手として切り取れるようになっている。そんな追悼の仕方もあるのか。

セックスと暴力2006-03-06

 岡本太郎というひとのことは、知ってはいたけれどもあまり興味がなかった。派手な色彩を撒き散らすことが現代美術だというイメージはこのひとが作ったものなのかなと思うくらいで、太陽の塔も美的価値が…と言われたら「部屋に置いておきたいとは思えない」っていうのが正直なところ。
 週末、向ヶ丘遊園の岡本太郎美術館へ遠足に行った。(この日は岡本太郎美術館と切手の博物館という、二つのニッチなミュージアムを訪ねる遠足だったのだ)
 美術館へ入る前にテラスでお茶を飲んだのだけれど、池の中に配置されたオブジェは、何というか…女性器か肛門みたいだった。へええこんななの?と思って中に入ると、それはもう分かりやすくセックスと暴力の世界なのだった。特に1940年代に制作された絵画作品に顕著な傾向で、炎みたいな朱色と閃光めいた黄色が、黒いよどんだ背景に散り、暗い鉄のような青色と流れる血の色が、かたちの定まらない不吉な割れ目からあふれ出しているかのようだった。ああ、戦争の絵なのか。
 その後の展示スペースでは、椅子や彫刻作品の方が多かった。どうも岡本太郎にとっては、びょんびょん飛び出しているのが「よきもの」の象徴なんではないかと思う。繊維強化プラスティックやブロンズの作品には、どれも彗星の引く短い尾みたいなものが何本もくっついていた。撫で回し抱きしめたいほど好きな彫刻があったとして、部屋に置いて折に触れ愛でるためには、はっきり言って、邪魔だろうなあ。刺さるし。その一方で、「渾沌」というしばしばよろしくない意味を持つ言葉をタイトルに含んだ彫刻は、驚くほどシンプルな四角柱をベースにしているのだった。確かに、岡本太郎にとって「よきもの」とはすべて、外へ向かって放たれるものなのだろう。

今さらのレビュー(もう公開終了している)2006-03-08

 ブラッド・ピットの出世作は何かと言われたら、Aliは迷わず『リバー・ランズ・スルー・イット』と答える。生真面目な兄貴と自由奔放な弟の人生を、常にそこを流れていた川とフライ・フィッシングで描き出す抒情溢れる映画(ロバート・レッドフォード監督)。ブラッド・ピットが演じているのは自由奔放な弟の方。ここでのブラッド・ピットは本当にきらきらしている。
 何度も書いているけれど、ブラッド・ピットの演じるキャラクターには、そんなに幅はない。x軸はインローかアウトローか、y軸はピュアかピュアではないか(この軸は半ば必然として次のことを含意する----つまり、子供か大人か?)。『リバー・ランズ・スルー・イット』の弟役はx軸はゼロの近く、y軸は大きくピュアに振れている。それ以外の代表作、たとえば『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンや『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』は、アウトローでピュア。『スパイ・ゲーム』での若いスパイや『セブン』での若い刑事や『トロイ』のアキレスはピュアでインロー、どっちにしてもピュアなことが多い。
 このことは、ブラッド・ピットがずーっと「青年」ばっかやってきたということと深い関係がある。ピュアかピュアでないかという軸は、子供か大人かと読み替えることがたぶん可能だ。大人の男はきれいごとだけで生きてはいけませんわな。正しくないとか自分の信念に反するとかこの状況は倫理的に許せんとか、こういう人間を軽蔑するとか思ったとしても上手くやらなきゃいけないこともある。やらなきゃいけないのは信条でも心情でもなく社会的立場がそれに見合った振る舞いを要請するからで、そのような社会的立場があるというのが大人であるということではないのかと。だからブラッド・ピットが演じてきたのは、たとえ社会人であっても「大人」ではなくて「青年」と言った方が適切だ。
 『Mr. & Mrs. スミス』は、決して「ものすごく面白い」映画ではない。ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーという旬な取り合わせが目玉のラブコメ映画だ。アンジェリーナ・ジョリーにラブコメをやらせるためには、「お互いに殺し屋という本職を隠している夫婦」という設定が必要だったのだろう(確かにとてもよく似合っている)。ここでのブラッド・ピットは、正直、男優としての力量に疑問を呈する部分もあるけれど(ラブコメ映画が退屈になるときは大抵、男優の力量が足りないわけで)、しかし、ここでは彼は「大人」をやろうとしている。楽しそうに三枚目を演じるブラッド・ピットは、『オーシャンズ11』なんかで見せていた余裕の表情ともまたちがって、彼が新しい何かを見つけだしたかのようだ。まあ、それは、目の前に現れたとんでもなく魅力的な女だったりするのかもしれないが。しかしもし、アンジェリーナ・ジョリーがブラッド・ピットに「青年」以外の役をやらせてくれるのであれば、魅力的でないはずはないか?

けれどもここはこれでいいのだ2006-03-21

 気がついたらアカデミー賞もラジー賞も終わっていた。忙しかったのは年度末だからではなくて、20日が締切の仕事を抱えていたせいなのだが。三月上旬にフォントとエディタを変えて以来、調子よく気分よく過ごしていたのだが、エディタを開くのさえ久しぶりだ。気がついたらお彼岸だ。
 彼女が死んだのだということを未だにきちんと理解できていない友人がいる。お彼岸の墓参りに行ったわけでも何でもないが、生前の彼女が「この本で書いてあることにひどく胸を打たれた」と言ってた本がたまたま文庫になっていたので、買って読んでみた。ずいぶん色んなものを読んでいるひとだったけれど、こともあろうに中村うさぎだった。彼女が面白いと言わなければ手に取ることはなかっただろう。
 読んでみての感想。信じられないくらいに生真面目な文章だった。もちろん多少のおふざけはあるにせよ、基本的には、とてもクラシックな文章だ。中村うさぎは出版社に印税を前借り(再来年の分まで!)しながら若くて愚かで美しいホストに入れあげ、そして考え続ける。なぜホストなのか?なぜホストに惹かれるのか?考え続け、そして終章近く、中村はひとつの結論に達する。
 ああ、そういえばこんなことを言っていたな、と思った。それは、ある意味ではとても不毛で、救いようのない欲望の物語であり、誰も手を差し伸べようのない孤独な魂の話だ。かつて友人がそんなことを口にしていたとき、私には何も言えなかったのだった。彼女にとってはきっとずっと考え続けたことで、そのことにひとつの結論が出されてしまったとき、ひとつの結論としてかくも救われない境地に辿り着いてしまったとき、何と言えばよかったんだろう。
 だけど世界のすべてが「私」だとして、「私」が「私」の自意識の牢獄から出られないとして、恋人といようが友人といようが決して相手という他者に辿りつけることなくすべてが「私」の投影に過ぎないとして、そんなことは今さらじゃないか。そう構えることはない、最初からわかっていたことなんだから。それは結論じゃなくて前提だ。その上で、私らがこれからどうするかって話をしよう。宮沢賢治が書いてたじゃないか、けれどもここはこれでいいんだ。
 今だったらそう言えるんだがなあ。今だったら。

よく食べてよく寝てよく遊んで2006-03-31

そしてときどき人生に悩みなさい。

『エリア88』の安田妙子が、「どうしたら妙子みたいなレディになれるの?」と10歳くらいの少女に訊かれてこう答える。そうかもしれない。
…というわけで、週末は飲んだくれることに決めた。久しぶりに思う存分飲んだくれて、シオランの初期作品か後期のP・K・ディックか久しぶりにレヴィナス『実存から実存者へ』でも読んで、不眠を楽しもうじゃないか。

そうと決めたらずいぶん気が楽になった。ぐっすり眠れそうなくらいだ。