悲劇的 ― 2007-04-09
山岸涼子の『舞姫(テレプシコーラ)』を読む。
現在単行本が10巻まで刊行されており、第一部が完結したところ。アヤメさんにまとめてお借りしたもの。…山岸涼子健在なり! バレエ漫画は山岸涼子に始まり山岸涼子に終わる!
久々に漫画で物語を読んだ気分だ。往年の名作『アラベスク』では、旧ソ連が舞台ということもあって、少女の夢見る華麗な世界という部分が際立っていたように思うが、『テレプシコーラ』は現代の日本、郊外でバレエ教室を経営する母のもとに生まれた二人の娘の話となっていて、より身も蓋もなくシビアで徹底した世界が描かれる。悲劇の予感とともに読み進んでいくのはほとんどサスペンスだ。
ところで最近、『アカギ―闇に降り立った天才』の話をよく耳にする…ような気がする。何でだ。そういえば会社の女の子も最近になって麻雀を打ち始めたとか言っていた。…何でだ。
もし『アカギ』を読んで麻雀漫画に興味を持たれたのであれば、是非とも麻雀漫画をあれこれ試していただきたいものである。『ノーマーク爆牌党』(博打よりゲームに寄った漫画の最高峰)『天牌』(ロマンティシズムあふれる闘牌)とか『根こそぎフランケン』(博打寄り、麻雀自体よりは麻雀に対する態度の話か?)とか。
一押しは何と言っても『爆牌党』。爆岡にはアカギのような強烈な魅力はないが、どこかしら悲劇的な強さがある。…と思っていたんだよなあ、昔は。それが当たっていたかどうかはさておき。
『300』(と書いてthree hundred)はフランク・ミラー作のアメリカ産コミックで、紀元前480年テルモピュライの戦いに題材をとっている。300人のスパルタ兵が数十万のペルシア兵に立ち向かい、あっぱれな玉砕をしたのだと言う。Amazonより詳しいレビューがこちらのサイトに載っていた。
フランク・ミラーは決めなくちゃいけない場の見得の切り方がとてもいい。前になんかの漫画を読んだとき「この漫画はアニメの絵コンテじゃないのか」と思ったものだが、それを言うならフランク・ミラーは映画の絵コンテだ。だから映画にしたくなるのもよくわかる。この夏公開になる映画のオフィシャルサイトはこちら。
われわれ観客はもちろんのこと、テルモピュライの戦いの行方を知っている。勝てるわけがないじゃないか、300人で----もっともヘロドトスによれば、この戦いでのペルシア側の犠牲は20,000人だそうだが。悲劇? いや違う。悲劇的ではある。この戦いの行方を知っているのは観客だけではなくて、300人のスパルタ兵に全軍出撃を命じたスパルタ王レオニダスだって、負けるだろうことを知っていた。一方、『テレプシコーラ』の篠原姉妹はあの第一部ラストに繋がる事態を想像もしていなかっただろう。爆岡はー…爆岡はどうだったろうか。知らなかったはずだが知っていたような気もして、そここそが悲劇的だと思ったのだ。
だいぶ前、「あらすじを知らないで『オイディプス』を観たらどれほど衝撃的だったことか」と考えたことがあるんだけど、悲劇というのはサプライズではないんだな。どちらかと言えばサスペンスだ。サスペンスでは、登場人物はこの先何が起こるかを知らないのに、われわれ観客ははっきりとした予感を持っている。だから『オイディプス』の結末を知っていたっていいのだ。
…でも『テレプシコーラ』はちゃんと最初から読むべきだろうな。『爆牌党』はネタバレされてからでも充分に楽しいと思うけど。『300』? いや、ある意味あれって死ぬほど格好いい『男塾』じゃないかと…レオニダスは赤石みたいなもんで。マッチョマン好きは映画版必見。
予告 ― 2007-04-16
…せっかく『アカギ』が流行ってるんだから『アカギ』に行けばいいものを…『近代麻雀』ですらないですよ『天牌』は。書いたところで読んでくれる人はひとりか二人しかいないような気がしますが何かやりたくなってきてしまいました。
『天牌』のキャラクタ構成は発展途上の若者と熟練のおじさま方という構図になっているので、唯一そのどちらにも収まってない主役級の打ち手であるところの"絶対感性"菊多は押さえておきたい。おじさま方だと強さの脈絡のなさにおいて群を抜いている"孤高の博狼牙"津神と、逆に話が進むにつれて強いということの重さだけが増していく"元裏プロ界帝王"入星の対比がいい感じですが、何せ麻雀に心血を注ぐ人々がひたすら卓を囲む話なので、そういう部分はすべて本編に任せればよいのです。埋める外堀もない、というのが『天牌』ネタのいちばん難しいところです。
気になっている点をひとつ挙げるなら、何か最近は主人公の沖本瞬が東京を離れて地方に行ってるらしいのですが----武者修行であれ何であれ、中国に行く可能性はなくもないのかもしれませんが、まあ、基本的には日本国内にしか麻雀界はないんじゃないのか、というところでしょうか。これがカードゲームの話ならねえ、ヴェガスを根城にするギャンブラーがアラブの億万長者からかっぱぐために中東へ旅行!なんてネタもあり得るのですけど(実際にそういうケースもあるらしい)。
『天牌』では「すごい打ち手登場→これまでの誰かの知り合いと判明」というケースがやたらに多いのを考え合わせると、ほとんど人外の強さを誇る主役級の打ち手たちと張り合えるという打ち手があちこちに点在するはずの世界として、日本てちょっと小さすぎるんじゃないかと思うわけです。しかもたいがいは裏社会の話だし。
つまり「これまでより広い世界に行くと、これまでに見たことがない強い奴がいるよ」というドラゴンボール的ジャンプ的な世界観というよりは、もう見知った面子でひたすら煮詰まっていく気がします。( 逆にいうと、そんな世界であるにも関わらずぽーんと東京を離れてしまったという点にこそ、沖本瞬が主人公である理由を見ることができるかもしれません)
で、阿佐田哲也を思い出したわけです。阿佐田哲也の著作を読むと、東京で食えなくなったバイニンが都落ちして地方で打つ、という話が結構出てくるんですね。果たして現代の地方というのがその物語を支え切れるのか?…というのが地方出身者としてすごく気になります。結局のところ赤坂だの歌舞伎町だのから離れられずに終わるのではないか、と。
沖本瞬の武者修行の行方に期待しつつ、近いうちに漫画喫茶行ってきます。
ロマンティック ― 2007-04-18
そんなわけで『天牌』を読む。
麻雀漫画って本気で読むとすごく時間がかかるものだ。描かれた牌の並びから状況を察することが求められるから。何がどうすごいのかというきめ細やかな解説がないとよくわかんないことも多い。…が、こと『天牌』に関してはそれもあんまり気にならない。麻雀牌は生き物で、よい打ち手はそれを理解し、季節が巡るようなある種の必然に導かれて打つ、というロマン主義闘牌だから。麻雀があんまりわからなくても読めるという利点あり。なんかよくわかんないけど放銃牌はぴたりと止まる。空テンはそれとわかる。
結果どうなるかというと、強さには理由などないのである。強いものは強いし、弱いものは弱い。"忘郷の一匹狼"影村遼が、過去に因縁のあったヤクザに捕まって雪山に生き埋めにされ、奇跡の生還を遂げたものの両手で合わせて五本の指を凍傷のために失った…とかいう辛酸を舐めて「修羅場の数なら金メダル級」とか思っても、波城組No.1の代打ち津神元や元裏プロ界帝王の入星祥吾にはいいように手玉にとられちゃったりする。
それでも、序盤から中盤まではさほど気にならない。『天牌』は現在37巻まで刊行されているのだけど、14巻あたりから18巻で決着を見せる雀荘「天狗」決戦までは最強の男は"麻雀職人"黒沢義明で、この人は言ってみれば『特攻の拓』における天羽時貞みたいなものだ(微妙なたとえ)。『天牌』の世界に生きる男たちの理想のありようを体現している。その黒沢は天狗決戦を最後に姿を消し、ほとんど入れ代わりで津神元が登場する。漫画内でのポジションとしてはポスト黒沢、理念的にはアンチ黒沢。脈絡のない強さという点では黒沢と変わらないのに、受ける印象はだいぶ違う。そしてその違いは、彼らの麻雀と言うよりは彼らの人間性に由来している。
何というか津神は、ロマン主義者の群れに一匹、バリバリの唯物論者がいるような感じだ。「麻雀の神」とか言わないし「絶対」がつく言葉も口にしないし「魂」「人生」も普通のおっさんでも言えそうなセリフで出てくるだけ、だけどやってること(=麻雀)は他のキャラと大差ないロマン主義闘牌に見えるのである。…この辺から、強さがインフレーションしているようにしか見えなくなってくる。津神元はバリバリの唯物論者っぽいがために、『天牌』におけるあらゆる闘牌はロマン主義闘牌以外の何かではありえない、ということをはっきりとさせてしまう。
考えてみれば、『天牌』世界における麻雀打ちの理想は黒沢義明にあらかじめ限定されている。それでは彼を頂点とするヒエラルキーができあがってしまい、後は、どれだけその境地に近いかが問題だ。そこでは強さというものにあんまり種類がない。
色んなキャラクタがいてこその麻雀群像劇なのに、強さの種類が少ないのはちょっとさびしい。だから個人的な希望としては、色んなキャラクタがそれぞれの強さのありようをもうちょっと多様なセリフで示してくれたら、と。
津神元が「知ってるか。ミネルヴァの梟は夕暮れになってから飛び立つんだぜ」と言ってロンとか。"電脳超新星"北岡静一が「俺たち余りにも知りすぎてる。そして余りにも感じなさすぎる。」と言いながらリーチかけるとか。"氷の貴公子"三國健次郎が「砂糖水が飲みたければ…」と言って手牌を倒し、「砂糖が水に溶けるのを待たなければならない…」と口走るとか。
復旧週間 ― 2007-04-29
いや、普段からバックアップ取っておかない私が悪い。音楽ファイルのサルベージに明け暮れていたがようやく復旧。同僚に聞いたら外付けHDD三つにバックアップ取ってると言っていた。曰く、「三つあれば最悪どれかは生きてるでしょう」
そこまでしたいとは思わないが、今となってはCDもないし、もっと大事にしなくちゃな。ようやく復旧したのでWayne Shorterの60年代のアルバムを立て続けに聴いている。ちょっと肌寒いがいい夜で、こういうときにはWayne Shorterはいい、と思う。何の憂いもないクールネスがびしっと行き届いている感じ。ああ、Guiness飲みたくなってきた。
ちなみに今聴いている"Juju"には"Mahjong"というナンバーが入っていて、この曲の雰囲気で麻雀漫画ネタというのは非常においしいと思いませんか?とネタを提出してみる。ちょっと恥ずかしいくらいかっこいい麻雀だな。日の短くなってきたのがわかる初秋の暮れ方に打ち始めて、半荘四回くらい打った後、店に入るときにはいなかったホストクラブや風俗のキャッチを後目に新大久保あたりの中華料理店で老酒と生姜で蒸した上海蟹でも食べる感じ。『天牌』なら津神の、福本漫画なら平井銀二の役どころ。麻雀ネタはJazzyに行きましょう。
その麻雀漫画、こともあろうに『天牌皆伝』とかいうこれまでのストーリー(「天狗」決戦まで)やらキャラクターやらをまとめた本を読んでしまった。うわあ。話に関係ない変な設定とかいろいろ書いてあるよ。"氷の貴公子"三國健次郎が「ありとあらゆるカジノギャンブルに長けている」とか、その弟"絶対感性"菊多賢治が「英語・仏語・独語を原書で読みこなす読書家で、ニーチェとキルケゴールが好き」とか、びっくりするより笑ってしまう。それにしてもこの兄弟、何で長兄が「健次郎」なんだ? 何かあったのか?
『天牌』も30巻越えだし、だいぶダレてきてるみたいだけど、三國と菊多の兄弟対決はそれでも見たいという人多そうだな。私もこの兄弟は好きだ。面白いし、汚くない。菊多は三國の異父弟なのだが、三國自身は三年前までその存在を知らなかった。自分を捨てた母親が死の間際に連絡をしてきたとき、最期に三國に託したのが、幼少時の虐待のおかげで極端に身体の弱い弟なのである。三國は菊多の面倒をみながら(何か山奥の病院に入院させてたぽいが)手慰みに麻雀を教えたところ「信じがたい才能を秘めてやがった」のだそうで…てことは何か、菊多の麻雀歴はたった三年か。たった三年で「坊やの中でこの降り打ちは何年引き摺っちまうのかな…」とか言ってるのか。
ロマン主義闘牌では「人生の厚み」が物を言うことになってるのだが、人生がはんぺんのように分厚くて才能があれば、若い身空で骨身を削って努力してる伊藤とか五十を超えて円熟味を増したはずの八角とかより全然強いのかと思うと、無慈悲だなあ。
で、ちょっと『漫画ゴラク』本誌も見てみた。今度こそ伊藤がだめになる話を描くのかな、と思わせるけど、どうだろうなあ。『天牌』の前半では谷口隆が死に、黒沢もまた姿を消すのだけど、それ以降は真に誰かがだめになることはない。津神にこてんぱんにされた伊藤が二度目の対局を挑む赤坂でも、また、女房子供を人質に取られた奥寺が戦う長野でも、それなりにはらはらさせるけど非情なことにはならなかった。赤坂のシーンでは「こいつは負けたら麻雀をやめる覚悟で来てる」とか言っていたのになあ。谷口の死とそれ以降の黒沢ほどの物語的な必然性がなくって殺せないのだろうか。
伊藤は現役の東大生で大変に恵まれた人物として登場し、その後、弾みがついたボールのようにまっすぐ坂道を転がり落ちていくのだけれど、そろそろどうにかしてやればいいのでは。伊藤は渋谷の路上で突っ伏して泣き出したり、ちんぴらに殴られて路地裏に転がってみたり、あげく刺青しょってみたりと、わかりやすくも切実なダークサイド・オブ・ザ・ムーンに余念がないのだが、dark/lightしかないんだもの伊藤…。
しかし考えてみると、谷口が死に黒沢も消え、これで伊藤が完全に麻雀を降りてしまったら、黒沢一家で残るのは主人公の瞬ひとりになるのか。…いいじゃないかその展開!