あらかじめ失われた栄光の味2009-06-18

誰も知るように、栄光の味は苦い。と書いたのは三島由紀夫だが、なんか味がしない映画だった。『レスラー』は。

脚本が問題なのかと言われれば、つまりはそういうことなのかもしれないけど、何だろう、ひどい目に遭うべき主人公がひどい目に遭うこと、それ自体を云々する気はない。好きだったストリッパーに最悪の中途半端さでふられようと、酔っぱらって麻薬を吸引したあげくに行きずりの女と寝てしまって実の娘との約束をすっぽかしそれ故に絶交されようと、カネを稼ぐために仕方なく従事するスーパーマーケットの仕事で客に屈辱的なことを言われようと。

だけど演出が悲しくないのだ。ダーレン・アロノフスキーは、この中年プロレスラーの主人公に対して、どこか甘い。『レスラー』でいちばん引っかかるのは、ミッキー・ロークは登場したその瞬間から、ミッキー・ローク=過去の栄光に生きようとしても人生すべて裏目ったランディ・”ザ・ラム”・ロビンソン、というつもり満々で、アロノフスキーはそれを助長しているように見える、ということだ。演出はすべて、過去の栄光にさびしく生きるランディを、世界ぜんぶの主人公として行われているように見える。たとえばストリッパーのキャシディは、みずから進んで苦痛を受け容れるランディの姿に、キリストを重ね合わせるようなことを言うし、スーパーマーケットの更衣室から惣菜売り場へ向かうランディの背中に、幻のような遠い歓声を重ね合わせてみたりする。それに髪を切らない。ランディは地毛のダークな髪を長く伸ばして金髪に染めている。彼が愛する80年代のハードロックバンドみたいに。控え室で倒れて病室で目覚めても、リタイヤするしかない状況に追い込まれても、ロングヘアはそのままだ。それも当たり前か。ランディは主人公なんだから。

でも、そうじゃないんだ。それは結果でしかないんだ。ランディ・”ザ・ラム”・ロビンソンはもっとうまくやれると思ってたんだ。少なくとも栄光は過去じゃなくて現在だったときがあったはずだ。彼はそこから滑り落ちたのであって、あらかじめ「すべてを失った元人気プロレスラー」だったわけではない、はずなんだ。