復活2006-04-10

この一ヶ月ほど死に体だったのですが、ようやく復活できそうです。あー長かった。プラド美術館展もまだ行ってない!

復活で思い出しましたが、先日の復活祭のとき、職場の知人が留学先から日本へやってきていたのでした。そこで職場の人を集めて歓迎会をやろうということになり、歓迎会の店へ向かう道すがら「どうしてこの時期に?」と尋ねたところ「復活祭だ」と。ああ、そういう季節ですね、復活祭にも休みがあるんですねー…と返したところで「復活って何の?」という声が。「いや、だからキリストが…」「キリストって復活したの?

…復活したんですよ…。

そういえば今さっき「死に体」と打ちましたが、これはもともと相撲の用語で、もはや回復の見込みはない体勢に追い込まれた力士の状態を指します。この状態になると、力士はその時点で「負け」を宣告されます、まだ土俵に手をついていなくても。
かつて大学の後輩は、「女を含めて人間関係には、レベルDのものとレベルEのものがある」と言いました。この単語そのものは富樫義博からきたものでしょうが、彼は続けてこう言いました。「レベルAからレベルDまでは連続的だが、DとEの間は断絶している。それはちょうど、瀕死と死が違うようなものだ」と。
うまいこと言うなあと思ったもんですが、「死に体」というのは、「死を宣告される瀕死」なのでした。

THE WAY YOU TALK2006-04-13

最近思うのだけれど、話している途中で自分から先に笑い出しちゃうのは、何でだかすごく善良に見える。

同僚と話をしているとき、タームの使い方の話になった。彼が言うには、とある青年とのメッセージのやりとりは長くは続けられないのだそうだ。というのも、その青年はタームを多用するからだ。それは同僚があまり詳しくない分野の言葉だ。
タームというのはバックグラウンド含めての説明をひとことにまとめているものだから、共有しているとすごく便利だけど、共有していないとかえって使えない。逆に言うと、誰かに何かを教えたとして、相手がタームを使った会話を躊躇なくし始めたら、だいたい基礎編は終わったなっていうことになる。「攻め/受け」で何のことかわかっちゃったらオタクとばれるのも同じ。
最近知ったターム:アメリカン・コミックスの敵役はヴィランというのね。

ここまで書いてきて、こんな当たり前のことを新鮮さをもって受け止めていたのかと自分で不思議になった。
それで思い出した、今日の仕事中、同僚から恋愛相談のメッセージが飛んできた。よくある切実な問題だ。答えているうちについつい、ナイーヴさとデリカシーの話になった。
これは私がよくする話のひとつで、多くの場合「ナイーヴだけどデリカシーがない」ことを咎めるためにする、典型的なたとえ話みたいなものだ。兄弟の関係を話題にするときにカインとアベルを出すようなもの。
同僚は私の意図をすぐに汲み取り、私の言ったことを彼の言葉で置き換えた後に、「自己欺瞞なんて言ってるおれは甘いってことか」と返してきた。自分が何を言っていたのか他人の言葉で説明されると、そしてそれが自分で言うよりうまく言えてたりすると、ちょっとぞくっとくる。

感慨と記憶2006-04-16

明日から職場が変わる。勤め先の会社が引っ越したためだ。

金曜日までは飯田橋に通っていた。就職してからいちばん長かった場所だ。飯田橋には、手入れの行き届いたVELOCEと、カバーのかけ方が素晴らしい文鳥堂書店があり、神楽坂まで歩けばひとりで飲むのに快適なバーが何軒もあったが、次の職場ではそれらはすべて失われる。
飯田橋でいちばん好きなのは、JR飯田橋駅東口を出たところにある歩道橋だった。この歩道橋は外堀通りと大久保通りと目白通りの交差点を横切って首都高の高架もくぐる。ある場所に立つと、JR飯田橋駅のホームが同じ高さに見えていて、それが好きだった。ことに夕暮れから夜にかけて、足もとには大通りを横切る車のライトが行き交い、そこから手の届かない遠く、しかし表情が見えそうな近くにあるホームが、蛍光灯に照らされているのが見えた。あるいは夏の昼間の高架下、江戸川の深い緑色に濁った水が夏の光を反射して、その光を首都高の高架が反射し、そっけない円柱と高架が水紋のかたちに彩られる。
職場がなくなれば、行く理由のあまりない街だ。もう目にすることはないかもしれないと思う。

金曜日、朝にはVELOCEへ行き、帰りには文鳥堂へ寄ろうかと思っていたが、朝は寝坊し帰りは水道橋の方で飲んでいたせいで、どちらも叶わなかった。最後だからと思っていたけれどまあいい。定期的に通った場所の記憶はいつも、いつの、どの記憶かもわからない、薄い膜のようなイメージを重ねて作られる気がする。最後に行ったとしてその記憶もやはり、そうやって重ねられていくだけだろう。

CUT IT.2006-04-17

ギターは、弦と弦の隙間に指を(あるいはピックを)突っ込むようにしてかき鳴らされて、その音はまるで、内臓と直結する器官を思い切りかき回されるようだ。洗練よりはもっと荒々しい音がいい。あまりにも近く触れすぎて擦り傷のできるような音が。
同じ弦楽器でも、なぜだろう、ベースの音色でそう感じたことはないのだけれど。

エースは行ってしまった2006-04-20

今度のポルシェ911ターボSは、マニュアルよりオートマの方が速いらしい。

聞くところによれば、米空軍の最新鋭の戦闘機は、コンピュータによる制御なしでは離陸することさえできないらしい。最新鋭の戦闘機では操縦する個々人の技量は以前ほどのウェイトを占めていない。「捻り込みだ。豚はあの技でアドリア海のエースになったんだ」なんてことはもう起こらないのだ。『エリア88』だってもうない。男の子たちはそれでも兵器に憧れるだろうか?
チェスの名人がコンピュータに勝てなくなった。戦闘機はコンピュータ制御なしに飛べず、イージス艦だってシステムに接続されていないことにはほとんど力を発揮できない。ついに車もなんだろうか。

最後の砦になるのはたぶん、バイクじゃないかと思っている。

苦痛についてのある物語2006-04-23

『ヒストリー・オブ・バイオレンス』読了。
先ごろ、デヴィッド・クローネンバーグ監督の映画が公開された、その原作本だ。アメリカの片田舎、食堂の主人を営む善良な男トムは、ある日食堂にやってきた強盗二人を倒してしまったことから一躍全米の英雄となるが…というお話。
まだ見ていないけど、映画版の方は原作と話が違うらしい。

アメリカの漫画業界は日本のそれとはぜんぜん違っている。キャラクタの権利を持っているのは出版社だし、ライター(原作者)もアーティスト(作画)もどんどん変わるし、映画のレイティングに相当するような、年齢と内容の制限がある。
そこでDCコミックス社は、「成人向け」シールを貼ることで、「子供には教育上よろしくない」とされるような大人向けのコミックを売り出した。VERTIGOと呼ばれるレーベルがそれで、このレーベルからは『コンスタンティン』として映画化された"Hellblazer"のシリーズや"100 Bullets"、
この『ヒストリー・オブ・バイオレンス』、ニール・ゲイマンの傑作『サンドマン』など、面白いコミックがたくさん出版されている。アメリカのホラーコミックもしくはバイオレンス、アクションを読もうと思うならVERTIGOを読むべし。(つい最近公開になった『V FOR VENDETTA』もVERTIGOレーベルから出版されている)

この話はアメリカの小さな街の平穏が打ち破られるところから始まる。
ある日突然襲いかかる不条理な暴力の話であり、そしてタイトルの示すとおり、暴力についてのひとつの(長い、あまりにも長い)物語だ。
アメリカの大人向けコミックでの暴力は、『シン・シティ』もそうだったのだけれど、ときにあんまりにも行き過ぎているように見える。エレガントなら見ていられる、ユーモラスならまだいい、だけど『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の暴力は----暴力によってもたらされる苦痛は、度を超えている。私の好きな小説の台詞に「度を超えた痛みがどんなものかは誰にも想像できない」というのがあるのだけれど、久々に夢に出てきそうなくらいだ。
日本の漫画でも暴力的なシーンはいろいろ出てくるけれど、苦痛はそれほど出てこない。しかしかの国の、VERTIGOのようなラインからは、暴力と苦痛がきちんとセットになってやってくる。

青い夜2006-04-26

…と言われて、ブルガリの香水じゃなくて『ターミネーター2』を連想した。あの青い夜。

夜にはときどき、夜の次にまた夜が来るような気分になるものだけれど、その気分そのものの映画っていうと『バットマン』か『ターミネーター2』が出てきてしまう。最近アメコミにはまっているおかげで。
でも『バットマン』の夜は青くはなくて、暗い。今まで読んだバットマンの中だと"BATMAN: THE DARK KNIGHT RETURNS"がいちばん面白かった、そのタイトルが示すとおり、バットマンの夜は暗いのだ。あの世界で青いのは、真昼のメトロポリスの空であって-----DCコミックス社の世界では、真っ青な空を飛ぶスーパーマンと、夜の闇に紛れるバットマンがいて、その中間に他のすべてのヒーローたちがいる。

連休の予定をまだ決められないのだが(仕事を放り出してもいいか?とは訊けない)、久々に長い休みを取っていいなら、夜の次にまた夜が来ればいい。

クライ・ベイビー2006-04-29

職場で書いていますよこんにちは。まあいいか、連休なんてどこ行っても混んでるだけだし、後でゆっくり休ませてもらおう。

どれかは覚えてない、高橋源一郎の本だったと思うけれど、映画館の暗闇で泣くフランツ・カフカの話があった。何でだか、ひどく記憶に残る話だ。映画館の暗がりでスクリーンを見つめるフランツ・カフカ。彫りの深い顔の大きな黒い瞳が、銀幕の淡い痛みのような白黒の光を映し出し、頬を涙が流れる。
CRY BABY, CRY.

朝、目が覚めると、泣いていることがあると同僚は言う。
どんな夢を見たのかは覚えていない。悲しかったということだけをぼんやり覚えているかもしれないが、夢が終わると同時に、夢の論理は遠ざかっていく。
目が覚めてしまえば後は、顔を洗って着替えて朝ごはんでも食べればいい。行ってきますとか行ってらっしゃいとか言って、仕事して、同僚たちとくだらない冗談を言って笑いあったりもするだろう。泣いてしまうようなことはぜんぶ夢の中に置いてきた。
CRY BABY, CRY.

電車の中で女の子が泣いている。
すいているけれど彼女は座らず、細い金属の柱を掴んで扉の窓に額を寄せる。扉の向こうには地下鉄の暗いトンネルの壁、ガラスに映りこんだ自分の顔など見えていないのだろう、きっと何か泣くようなことがあったのだ。でももしかしたら、自分が何で泣いているのかはわからないかもしれない。泣くことに至った過程は覚えていても、それがすなわち泣く理由であるとは限らない。何かがわかってしまって泣くこともあるし、何かを理解しないために泣くこともある。
連休の初日、天気はあまりよくなくて、まるで三月みたいな薄曇りの日のことだ。
CRY BABY, CRY.