ナップスタージャパン随想 ― 2010-03-08
定額聴き放題という希有なサービス形態で、私のここ数年間の音楽生活を実に豊かにしてくれた。もちろんすべてをカバーしていたわけではないが、気になったらすぐに検索してフルで聴くことができるというのは、他のサービスにはない美点だった。しかも提携先がTOWER RECORDSだったので、J-Popはじめメジャー路線にイマイチ疎い私の趣味にはよくマッチしていた。サービスが終了してしまうと本当に困る。
サービス終了の主な理由は「採算が取れない」ことなのかと思ったら、何でも米国NapsterがDRMつきMP3の配信をプロテクトなしのMP3に切り替えるそうで…。「日本版でも同様なサービスを行おうとした場合、楽曲の許諾やシステム運用などに大規模な支出が必要で、採算が合わない可能性が高いと判断した」とのこと。嗚呼。ならば日本だけが今の形態でもいいから存続してほしかった。
あー…2010年は電子書籍元年になるんじゃないかという話も聞いているが、こと音楽に関して言えば、久々に! 著作権絡みで心底暗澹たる気分になるニュースである。嗚呼。Amazonではプライム会員にKindleを無料配布するかもと言っているこのご時世に! ナップスタージャパンは米国の構築したシステムのメンテだけで延命することもできなかったのか!
なーんか「想定している読者層」に自分が含まれてないな、て感じだった『ゼロ年代の音楽』で野田努がいうことには、
音楽がポップ文化のなかで最高のプライオリティであると思っているのは、ある程度歳のいった連中か、もしくはまあ、若年層では下手したら少数派になるのかもしれない。いずれにせよ、二一世紀において、音楽から逃れられないと言っているのは、どうも何か変わり者のようなのだ。
…だそうだ。半分は同意する。私は音楽なしでやっていきたくはないが、ただし、音楽がポップ文化のなかで最高のプライオリティであるとは思っていない。ポップ文化の外も見るなら尚更だし、それに、プライオリティは結局は予算に結実する。今の経済状況を考えたら、音楽にかける予算はライヴとかクラブとかの経験的な事柄に使って、音源自体にかけるお金はできる限り少なくしたい、というのが正直なところだ。そこで定額制のNapsterが大いに役立ってくれたのだ。Napsterがなかったら聴いていなかった音楽は山ほどある。Acoustic LadylandもFour TetもAmy WinehouseもThe Islay Brothersも。もちろん探せば代替になるものはあるのかもしれないが、ちょっとお金を払ってそこそこたくさんの選択肢を提示してくれる…と言うのは、やっぱりありがたいサービスだった。
ちょっとズレるが、『ゼロ年代の音楽』をなーんか違うな、と思った最大の理由は、(おそらくは何の他意もなしに、だからこそ引っかかるのだが)音楽を「最高のプライオリティ」としているところだ。私の場合、聴いてる音楽の種類からして「コアな音楽」ファンにカテゴライズされることはある。が、もし、有限な遊興費の中でもトッププライオリティでCDを漁りレコードを買い夜毎おもしろいイベントを探すことが音楽好きの条件だとすれば、全然「コアな」音楽ファンではない。ちなみにストリートライフも送っちゃいない。こういう中途半端なリスナーはどこに位置づけられてるんだろう? 対談では音楽の持つ社会性や政治性についての言及が多かっただけに、リスナーとして誰を想定しているのか全然見えてこないのが気になってしまった。もし、それらの音楽を愛好する層として想定しているものが「わかってて当然」の前提だとすると、前提がわからない私はそもそもお呼びでないってことになってしまう。ただ面白くて新しい音楽を紹介してほしかっただけなのだが。
Napsterは、WEB上で展開される様々なサービスの中でも、こういうライトな音楽好きに打ってつけのサービスだったと思う。「コアな」音楽ファンではないから、ちょっと情報は遅めかも。でも何かどメジャーな趣味からズレあり。というリスナーだ。次が出てきてくれるまでが本当に寂しい。
Votre Musique ― 2010-02-27
『ゼロ年代の音楽---壊れた十年』の冒頭、「〇〇年代の孤独」と題した野田努の論考で、NME、The Guardian、Pitchforkの3メディアの2000年代の10年間のチャートを挙げている。The Guardianの1位であり、野田努がこの本の中で絶賛しているのがThe Streetsだ。恥ずかしながら私ははじめて聴いた。
いちばん売れているのは最初のアルバムである"Original Pirate Material"で、これは私もベストだと思う。野田努の評を引く。物語が否定され、シニカルな傾向を強めたこの時代において、スキナーは臆せず物語を語った。それは午前3時にクラブをうろついている人間の、路上に吹き曝されているちっぽけな物語の数々だ。スキナーはそれらを大切に拾い上げ、最新のガラージ・サウンドのうえでペンを走らせる。「セックス、ドラッグ、失業保険」---USラッパーの迫力と比較するとずいぶん見劣りする冴えないストリート・ライフに、この抒情詩人はとびきり優しい光を当てる。 なるほど、確かに。この評だけでも、ある種の音楽を漁る趣味の人には、ちょっと聴いてみようかなと思わされるんじゃないかと。
さて、私の個人的な感想としては、2008年のアルバム"Everything Is Borrowed"の1曲目、タイトルトラックが色んな意味で引っかかった。この曲ではガラージっぽさは薄れて、アレンジも割りと大仰だ。shabbyでcrummyなストリートライフに当たる優しい光。とかいうささやかなものではない。もっと勢いよく前向きで肯定的な詩を歌っている。
何も持たずにこの世に生まれ落ちた
そして愛以外何も持たずにこの世を去るんだ
ほかはぜんぶ、ちょっと借りているだけのこと
何を思いだしたかというとThe Verveの"Bitter Sweet Symphony"だ。人生はビターでスウィートなシンフォニーだという実にストレートで肯定的で感動的な歌詞が、単純で叙情的なメロディラインと、派手なオーケストラアレンジで歌われる。そういやあんまり歌がうまくないのも近いな。この曲、けっこうヒットしたのだけど、何じゃそりゃー!という気分になったのを思い出す。あんたこの間までいかにもドラッグやってそうな感じだったじゃん! 前向きになるにしても「俺はこれまで本当にしょうもない人生を送ってきた。でも今度こそ、今度こそうまくやりたいんだ」くらいの慎ましさだったのに! あんまりにも前向きになられると、経済的な成功がもたらす力の範囲を超えて「…どうかした? 何か変な宗教とかはまってない?」て気分になるじゃないか。いや大人になるってことかもしれないが、ヤンキーのお兄ちゃんが生き急ぐように「いつまでもバカやってらんねえよ」と言うようなもんなのかもしれないが、人が前向きに生きていこうとしていること自体を否定したくはないんだが…と、思わされたものである。
これって間違いなく、UKのストリート上がりのミュージシャン達の「大人のなり方」あるいは「人生の受け入れ方」あるいは「世界の肯定の仕方」のひとつの類型なんじゃないかという気がする。単調なメロディの反復とオーケストレーションによって歌われる世界の肯定。The Streetsに関して言えば、真髄を味わう前に結論を知ってしまったようで、若干居心地が悪いけど。
The UnderSide Business ― 2010-02-21
本を読む時間は全然ないのに、反動のように音楽を漁っている。
CommonというHip Hop畑の人がいて、今月はじめて音楽を聴いたのだが、案外よくって驚いた。というのもこのCommon、Hip Hopのクリエイターとしてはさておき、どうにもならん感じの映画によく出ているのだ。『ウォンテッド』ではアンジェリーナ・ジョリー演じるフォックスの属する暗殺組織の一員、『ターミネーター4』では目のうるうるしたジョン・コナーの忠実な副官、『アメリカン・ギャングスター』では麻薬王フランク・ルーカスの弟、『フェイク・シティ』では麻薬の密売人。『スモーキン・エース』は観てないがまあ期待値は高くはない。顔と佇まいは嫌いじゃないので出てくると「あ、コモンさんだよ」と気づきはするが、どれも脇役で、しかも映画自体の出来映えがイマイチ。酷評するほどひどくはないけど見るべきものがそう多くない、ある意味いちばん記憶に残りにくい映画ばかりだ。
いったい何が楽しくて映画に出てるんだ? 大して面白くもない映画で型どおりの黒人の脇役をやるくらいなら、本業に精を出した方がいいんじゃないのか? …と正直かなり失礼なことを思っていたのだが、実際にアルバム三枚ほど聴いてみたら、いやこれが案外よいではないの。ますます、俳優業なんかやってるのが不可解になってきた。映画では、性格はなくて印象だけの脇役をやっていて、剣呑な顔つきや硬い目つき、ストリートベースで疑り深そうな黒人の役ばかりだが、音楽は意外なくらいのびのびと、アフロっぽかったりポップだったりするサンプリングの上で歌っている。少なくともこっちはちゃんと記憶に残る。
Statistic Playlist ― 2010-02-18
根暗な趣味なら捨てるほどあるが、中でもいちばん根暗なのは、iPodに入れたアルバムのアートワークをくるくるスクロールして眺める、というやつで決まりだな。しかも寝る前に。明日の朝は何を聴こうとか考えてにやにやしている。
最近はiPodのGenius機能ばかり使っている。アルバムではなく曲単位に選んでいくというプレイリストは私の音楽の聴き方をそう簡単には変えなかった。何となれば、プレイリストを作るのは手間暇かかるからである。かといってシャッフル機能では取り留めがなさすぎる。Genius機能では、起点となる曲をてきとうに選んで起動すると、ライブラリから同じテイストの曲を選んで勝手にプレイリストを編集してくれる。もうちょっと面白みのあるプレイリストを…と思うこともないではないが、決して悪くはない。いずれは「意外性重視」とか「とにかく同じBPMで途切れなく」みたいな指定もできるようになるのかな。で、いわゆるDJ的なミックスの作業というのも『その数学が戦略を決める』の世界になる日が来るのだろうな、とぼんやり思う。統計に基づいて決定されたミックスが、職業的な訓練を積んだDJに近づいてくる世界。
そういう言い方をすると、人間性とかオリジナリティとか新しさとかいう観点からの反論が簡単に予想されるが、だからといってプレイリストが「無機質でつまらない」ものになるとは限らない。DJが不要になるわけでもない(野田努の言う「新しいもの」のことを思い出す)。Genius機能についてはまだまだ改善の余地はあるにせよ、プレイリストがつまらない理由のいちばん大きなものは、ライブラリがつまらないことだ。
ホテルの部屋で会おう ― 2010-02-03
彼氏のことなんか忘れなよ
ホテルの部屋で会おう
友達も連れてきちゃいなよ
ホテルの部屋で会おう
PITBULLの"Hotel Room Service"より。2009年の各ジャンルのベスト、みたいな記事を元に普段は聴かないジャンルの音楽を漁っていて、「2009年最強のパーティー・アルバム」と評されたアルバムに行き着いたのだが、ああこれ『ワイルドスピードMAX』のBGMに使われていた人だ、とすぐにわかった。若々しく脳天気で常夏で、見たくないものを見ないのじゃなくて目に入らない。目を背けてはいない、夢中で踊らなきゃいけないだけだ。オフィシャルヴィデオでは女の子たちの肉感的なことに目を奪われつつ、格好つけてるアホがいっそ無邪気に見えてくる。
『ワイルドスピードMAX』はろくな映画ではなかったが、それでもアメリカでは結構売れたそうで、いったいどういう若者が観に行ったのかなぁという疑問が氷解したような気分だ。こういう音楽を聴く層へ向けた映画だったのか。これが売れるなら『ワイルドスピードMAX』も売れるだろう。
The New Mastersounds @ Club Quattro ― 2010-01-24
週末は渋谷でThe New Mastersoundsのライヴ。
ギタリストのエディ・ロバーツを中心とするクラシックなファンク系のバンドで、曲は基本的にインストオンリー。18時開演で、途中10分程度の休憩を挟みつつ、21時半までたっぷり演奏してくれた。心地よく疲れるくらいにはたっぷりと。いいライヴでした。
昨年だったか、「生音系も最初は目新しかったけどそろそろ食傷気味かな」みたいな話になったのだけど、生音系だけにライヴに行くというオプションの価値が高い。いやもうホントに高い。ポール・クルーグマンがどこかで「インターネット上の経済では、人はまず無料のもので名を挙げて、それからお金を稼ぎにいく」というようなことを書いていたと記憶するが(インターネットじゃなくて未来だったかも)、これから音楽で食べていこうという人たちはまさしくそれで、CDで名前を売ってライヴに客を呼ぶ形態の方が希望があるんじゃないかと。音楽の普及形態がラジオからレコードに変わり、カセットテープ以降はコピー可能になり、電子データで充分になった結果、ライヴが優れたバンドの価値は相対的に上がっているように思われる。後、これはこのあいだ引用した野田努の話にも繋がるのだけど、過去を参照することは簡単でも過去のライヴは経験できない。
その昔、私の兄はヘビメタさんだったのだが、その世界では「ライヴこそ至上のものであり、おしなべてレコーディングされたものはその劣化コピーに過ぎない」という強烈なドグマが横行しているようで、私はそれがすごく嫌だった。後追いの人間としてはそんなこと言われてもどうしようもないことも多いし、それに、音楽の聴き方をひどく限定的にするような気がした。もっと他の聴き方もあるだろう、聴き方に優劣なんかあってたまるか、とまあこういうわけだ。
終わった後で一緒に行った友人とごはん食べながら、音楽にめちゃくちゃ詳しい共通の知人の話が出た。その共通の知人には、The New Mastersoundsのライヴへ行ってすごく楽しかった!というのはわかってもらえないかもしれない、という感じ。何も新しくないじゃないか、初期のThe Metersとか聴けば? と言われたら返す言葉はない。過去を参照する音楽に新しさはないかもしれない。だけどライヴをやってくれるというのは大きな価値だ。そこを敢えてどちらかに決める必要はないのだが。
新しいものが生まれてくる ― 2010-01-09
野田- 〇〇年代はレトロ趣味の時代じゃない? エイミー・ワインハウスもフランツ・フェルディナンドも、みんな過去を参照している。キティ・デイジー&ルイスもレトロなんだけど、新しく焼き直した巷のレトロ趣味と違って、新しいものにまったく興味を持てなくなったティーンエイジャーの音楽、というところにぼくはちょっと引っかかってる。
中原- なるほどね。
野田- 音楽業界にいると、これからも新しいものが生まれてくるんだという期待はどうしても拭い去れないじゃない。
中原- ないでしょう! みんながレトロ、レトロと言っている時点で何も出てこなくなった気がするんですけどね。
野田- 現在よりも過去のほうにアクセスしやすくなってしまったとも言えると思うんだよね。むかしはストゥージズのファースト・アルバムを探すことは困難だった。セックス・ピストルズがカヴァーをやっているけど、イギリスでは、ストゥージズのアルバムなんて一九七六年の時点で中古盤屋にも売っていなかったというんだよね。しかし、いまはほとんど全部再発されてアーカイヴ化されていて、容易にアクセスできる。個人の趣味で過去を参照することは、いまや現在にこだわるより楽かもしれないよね。
中原昌也の対談集『12枚のアルバム』より、野田努との対談の抜粋。ことはそう単純ではないと思うが、それこそ、何か引っかかるものを感じたので引用しておく。音楽を聴くという行為、その必要性と娯楽性と個人への影響、テクノロジーが可能にしたアーカイヴが何をもたらすのかまだわかっていないこと、それが何を変えるのか----何をもたらし何が消えるのか、時代と音楽の関係、過去の参照。
と思いながら聴いているのはSlaveのベスト盤なんだけどね。
I'm Always Behind You ― 2009-12-15
おそらく早熟な子供というのは、自分より五歳~十歳上の世代と同じ世代的バックグラウンドを共有しがちなんじゃないかと思う。早熟な子供が憧れるのは、自分とまんま同世代ではなくて、「ちょっと年上」の連中が憧れるものだからだ。年上の兄姉がこれに拍車をかける。小学校の高学年になると、当時の高校生が熱狂する洋楽に憧れる。中学生の頃には、大学生のあいだで流行る推理小説を貪り読む。
私はまさしくそういうタイプで、自分より十歳くらい年上の人となら映画と音楽と本の話ができる。彼らが高校生の頃、初めてのデートで行った映画のタイトルを当てられたりする(あー何だろう『フラッシュダンス』と『トップガン』の世代だから、うーん…『ストリート・オブ・ファイア』?)。小学生の頃から洋楽漬けで、ヒットチャートを後目にジャズを聴き、クラシックロック大好きだ。まさしくその時代に好きだったのって、ノイズギターとテクノくらいだ。そしてどうなったか? というと、ある程度経ってから自分と同年代の音楽や映画を後追いで知るのである。まったく馬鹿馬鹿しい話である。
Erykah BaduやMaxwellやRahsaan Pattersonなんかの、ネオソウルと言われる90年代後半からのR&Bを聴いていると、こいつら同じ世代なんだなーとしみじみ感じることがある。リアルタイムで聴いたのではないアルバムが多いし、Erykah Baduに至っては、このあいだ耳にする機会があってようやく知った。つまり後追いだ。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーのようなソウルミュージックがあり、でも最近のはよくわからん…と言いながら知ったのが彼らの世代だ。後追いに慣れてしまって、現役で活動していると知ると「チケットさえチェックしとけば観る機会があるかもしれないのか…」とむしろ戸惑うくらいだ。
にも関わらず、同じ世代なんだなと感じるというのは、おかしな話だ。だけどよくある話でもある。
2009年もいろいろな音楽を聴いたが、私にとってはアフロの年で、Rail Band最高! Tony Allenよりかっこいいドラマーなんかいない! …という年だった。しかしアフロに関してもコンテンポラリーはよくわからない。現役で活動しているミュージシャンをあんまり聴いてないのだ(いやもうRail Bandの"Belle Epoque"シリーズ最高です、Tony ALlenの"Home Cooking"は今でも全然いけるはず)。とか言いながら、アフロもそのうち後追いで聴いて、「ああこの人同じ世代なんだ」と感じることがあるのだろうか。
ザハリッヒ ― 2009-07-29
二十年以上、好き勝手に本を読んできたのだから、あ、今は読めない時期なんだな、というのはわかる。受け取るこっちがうまく言語化されて落ち着いてないとき。というか、普段はよく喋る奴がなんか黙っちゃう飲み会みたいなもんで、そう気がつくまでわからない。理由はいつも後付けだからあってないようなものだ。
映画と小説をとても大事にしているが音楽がわからないという知り合いが、iPodにあほみたいな容量のmp3を持ち歩く私に言ったことには、「音楽はわからないけど、その分、音楽が好きな奴にはたとえば『天気はいいけどやる気のない日曜日の午前中』と言ったときにぴったりの音楽を選んでほしい」んだそうだ。これもなかなか難しいけど、リズムの感じ方が近ければ何とか選べるような気はする。音楽に関しては私はとても狭量で、趣味が合わない男(たとえばヘヴィメタル)とつき合うくらいならいっそ音楽なんか興味がない方がいいと主張している。音楽というやつは、音の及ぶ範囲には否応なしに影響するから、そんなにその選択権を持ちたいなら、そのくらいの責任は引き受けるべきかもしれない。
ただ、「ぴったり」の意味するところは「流れていても邪魔にならない」だったりして、その違いを考慮するのは案外難しい。どう難しいかというと、私が音楽を聴くのではなくてツールのように使うときというのは、ある種のリズムやサウンドが自分に及ぼす影響を知っていてそれを選ぶことなので、「ぴったり」と言われたらどうしてもその気分を盛り上げるツールとなりうる音楽を選んでしまうだろう。でも実際には「今の気分を邪魔しない」だったりするわけだ。
読めない時期と言っても、まったく読めないわけではない。読めるものがすごく限定されてしまうだけだ。二十年以上、好き勝手に本を読んできたけども、こういうときに何が読めるかは「あ、読めるな」と思うまでわからない。いつのまにか読めない時期が終わっているだけというケースもある。何となく、プラスのフィードバックもマイナスのそれもなくて、「邪魔しない」ものをほしがってるのかな、と考えた。
Peteneras ― 2009-06-04
どこで読んだのか思い出せないでいたのは、『哲学的落語家!』に載ってた話だったのか。
男を破滅させる村娘というのは「ペテネーラ」だ。彼女とシナゴーグ(ユダヤ教教会)で逢う瀬を楽しんだ男にはかならず不幸が訪れたので、村人は彼女を「破滅」と呼び、石もて村から追った。スペイン近世史におけるユダヤ人迫害に根を置く伝承だという。それがフラメンコ曲および踊りの型式になったものが「ペテネーラ」であって、ユダヤ人の受難をジプシーが歌い継いだ、たぶん唯一の曲であり、まことに美しい旋律ながら、ジプシーがこれを歌うとジプシー仲間に不吉なことが起ると敬遠される秘曲だ。
ユダヤ人迫害、ジプシー、踊ると不幸が訪れる----これだけ覚えていて詳細を忘れたままになっていたのが、まさかこんなところにあったとは。気がつかなかった。誰が「雨乞い源兵衛」について書かれた章でジプシーの伝承を読むと思うだろうか。これでもう二度と忘れない。
さて、平岡正明の真骨頂は、次のような箇所である。先日浅草演芸ホールでも若い落語家がやっていた「代書屋」についてだ。
枝雀の「代書屋」は、自分がなぜ、姓名・年齢・本籍・現住所・学歴・職歴・賞罰を国に知らせなければならないかにとまどう庶民と、自分の年齢さえいい加減にしか知らずに生きてきた庶民の生活そのものにとまどう国家機構末端の伝達不能(ディスコミュニケーション)という「思想落語」である。カフカ「審判」を落語でやったようなものだ。
カフカと来たか、カフカと。
さて、次は色川武大『寄席放浪記』だ。寄席では三味線を聴くけど、津軽三味線でフラメンコギター曲やったらはまりそうだな。