The Dark Shadow ― 2009-10-12
カラヴァッジオはすぐにかっとなるタイプだった。伝記を読むと、絵を描いていなかったらごろつき同然だったんじゃないかと思う。酒場での諍い、脱獄、決闘の挙げ句にローマから逃げ出すことになる。まずはナポリ、それからマルタ島だ。
マルタ島にカラヴァッジオが滞在したのは半年に満たないにも関わらず、そこでは次々に絵を仕上げたらしい。ほとんどは離散しているが、二枚をヴァレッタの聖ヨハネ准司教座聖堂で見ることができる。一枚は"The Beheading of St John the Baptist"、もう一枚は"St Jerome Writing"だ。
ヨハネの斬首の方は大作で、縦が四メートル横が五メートル。ヨハネは裏路地で首を斬り落とされようとしている。地面に置かれた剣はすでに使われたはずなのだが、一滴の血もついていなくて、そこだけスポットライトで照らし出したみたいな淡い光を反射して銀色に光っている。サロメ付きの侍女が金色の盆を差し出している。この絵、思った以上に大きくて、ずっと眺めていると右側の方なんか結構がらがらなんだなあと目につく。たぶん舞台美術だからだろう、後ろの扉だって大道具のようだ。歌舞伎っぽい。演劇的な止め絵の美学だ。これまで見たことのあるカラヴァッジオの絵はどれもこれほど大きくなかったので、その舞台っぽさに驚いた。
もう一枚の聖ジェローム、こちらは展示室のライティングのせいもあって実物はもっと暗く見える。おかげで光はより明るく、影はより暗くなり、ぼんやりとした暗闇から聖ジェロームが浮かび上がってくる様は、到底何かを書いているようには見えない。手元は暗いし。禿げかかった老人なのだが、象牙のような裸の上半身が無駄に色っぽく、腰から下を覆う厚手の赤い布がまたきれいで、何とも艶がある。カラヴァッジオの描いた若き日の予言者聖ヨハネなんかもそうなんだが、宗教画にこんな色気があっていいんだろうか。
薄暗い展示室を出ると昼のマルタはなかなか強烈な日差しが照りつけていて、サングラスなしでは表を歩けないほどだ。眩しくて目が開けられない。その分だけ濃い影が街路に落ちて、カラヴァッジオがその後シチリア島へ渡ったことを思えば、このマルタ島はカラヴァッジオの訪れた南端だったのだなと考えた。
祭囃子の音が遠い ― 2009-07-28
七月大歌舞伎の夜の部は「夏祭浪花鑑」と「天守物語」。「天守物語」は完璧な非日常。白鷺城の天守閣にはこの世ならぬ世界が…というだけでもアレだが、住んでいるのが坂東玉三郎なんだもんなあ。いや色っぽかった。初めて女形をすごいと思いました。玉三郎の相手役である姫川図書之助を海老蔵が演じていたが、玉三郎の迫力に較べるといかにも「金も力もなかりけり」な青二才ふうで、そこがまた乙なところなんだろう。誘ってくれたみなせさんが「泉鏡花の時代には、ああいう色男が生きていくのは今より大変だったでしょうし」というようなことを仰ってて、言われてみれば確かに…である。
「夏祭浪花鑑」は市川海老蔵が演じる団七の殺陣が季節もの。舞台の上に川と井戸がある。はずみで舅を殺してしまった団七は、ようよう近づいてくる祭囃子に我に返って井戸の水を頭から被り、刀を鞘にしまおうとするが手が震えて思うようにしまえない。刀の柄に鈴みたいのが仕込んであって、手が震えるたびタンバリンみたいな音が響くようになっている。衣装もすごかった。団七は舅の義平次ともみ合ううちに着流しが脱げて髷もほどけてしまうのだが、全身刺青で、下帯が真紅。うわぁ。だんじりに紛れて祭囃子を口ずさみながら去るという幕切れもいい。あの一連のシーンは、見終わってすぐより、時間が経ってからだんだん鮮明になっていくような気がする。
Truly Brilliant ― 2009-05-16
おお、いつのまにか川瀬巴水の木版画集が出版されていた!
人気がありそうな割にまともな画集が手に入りにくかったので、これはとても嬉しい。渡邊木版美術画舗にも見に行きたいなーと思っているのだが、買っちゃいそうで怖いのと(新しく刷ったやつなら二万円程度で買える)、日曜定休というのが何とも…とりあえず壁紙にできるサイズの画像がほしい。あ、でも、今調べたら図録が買えるようになってるなー。今日買ったやつに出てなかったのもあるし、これは買う。
朱塗りの鮮やかな雪景色や青い月夜、夜の雨に浮かぶ家の灯りもさることながら、直接の夕焼けの美しさではなくて木々や建築物の照り返しとして描かれる巴水の夕暮れが大好きだ。傾きかけた日差しの柔らかな明るさがいい。油彩の風景画はどうしても重たい質感になりがちだけど、薄い色を重ねて刷られる版画では、ある意味ポップな薄っぺらさが幸いしてか、染め物のような趣がある。あーこんな景色の日本に住みたい。言葉がない。
六番目の部屋 ― 2008-11-23
ロスコの絵にはキャンバスと絵具しかない。絵具と言ってもMixed Media on Cambusなので、実際には何が入っていたのかわかったものではないが----ロスコは制作中の様子を見られることを極端に嫌ったと言われているし。
テート・モダンのマーク・ロスコ展は時間のせいか案外人も少なく、ゆっくりと見物できた。9部屋に別れていて、メインとなるのは4部屋くらい。暗い緋色をベースにしたシーグラムのシリーズをメインに飾った部屋と、ロスコ版「黒い絵」とでもいうべき一連のシリーズのうち何枚かを展示した6番目の部屋、ロスコにしてはさほど大きくない水彩のBrown on Grayのシリーズを飾った最後の部屋がメインだろうと思う。
カラフルさが身上だったロスコの絵からだんだんと色が消えていき、最後にはロスコは謎の死を遂げたわけだが、それにしても6番目の部屋の黒さはソリッドだった。微妙に形の違う矩形が、黒一色のバリエーションで描かれているのだが、視線が吸い込まれるように黒い。近づいてよくよく見るとキャンバスの布地の目が見え、距離を置いて絵の前を左右に移動すると、光の当たる角度でかろうじて黒さの違いがわかる。ロスコの絵にはガラスのはめ込まれた額縁は向かない。照明の色や人の影が映りこむだけで色合いが変わってしまう。
5番目の部屋にはBlack on Brownというチョコレートブラウンに黒い矩形の絵が展示されていて、6番目の部屋にはそこを通過しなければ出入りできない作りになっている。Black on Brownも相当にソリッドな絵だけど、6番目の部屋を出てきたあとでは、妙にぼやけて見えた。
しかし惜しいのはポストカード類が充実していなかったことだ。マットな質感であの黒い絵のポストカードを作ってくれたら、3セットくらい買い込んで帰るのに。黒い絵は諦めるとしても、ポストカードのサイズを絵に合わせて、白い余白がないようにしてほしかった。いくらテート・モダンでもそれは無理か。
Kites in the Wind ― 2007-09-17
この中に、1979年にベルリーブ美術館で開催されたという「風の中の凧」展のポスターが収録されていた。自由と無重力の夢、欧州と極東の凧、と書いてあるらしい(ドイツ語なので読めない)。これがなかなかよいポスターなのである。画面下部を積乱雲が埋めている粒子の粗い青空に、ソフト帽をかぶって自転車に乗るコミカルな男の影と、その影からのびる揚げ糸が描かれている。いいね、確かに、無重力の夢だ。ちょっと前にカウチで空を飛んだアメリカの男性のニュースがあったけど、あれを少し思い出す。色とりどりの風船にカウチで揺られていくのもいいが、自転車で空を飛ぶというE.T.な夢(ちなみにこのポスターが1979年で、E.T.が1982年だから、このイメージは E.T.の剽窃ではない)が、空に映った男の影として描かれているところが素敵だ。
この展覧会はどういう展覧会だったのかなあ。凧は確かに風に乗って揚がるものだが、凧じたいを展示したとしても「風の中の」凧にはならない。凧と、それが揚がっている写真をセットにするというのが安直だが、もっと創意のある展示だったかもしれないし、凧だけではなく糸巻きだって工芸品の範疇だろう。六本木の国立新美術館みたいな天井の高いところで、凧を本当に揚げる展覧会とかやってくんないかな。ロンドンのテート・モダンの吹き抜けだったらできそうな気もする。
しかしそれなら、あちこちで開催されるKite Festivalに直接足を運べばいいわけで、展覧会として実施するなら、それが屋内に並んでいることに意味があるような形式にしないと意味がない。
あー凧揚げ行きたくなってきた。
マドリッド、1933年 ― 2007-06-30
写真展に出品された中に、1933年のマドリッドの写真がある。巨大な白壁にサイズも位置も不規則な窓があり、その手前、カメラのすぐ近くに子供たちの姿がある。実はこの子供たちはサッカーをしていたみたいだ。『マグナムサッカー』に、白壁を背にしたゴールキーパー役の子供が、飛び上がってシュートを止めようと手を伸ばす写真があった。少年はシュートを止めただろう。ボールは弾かれて転がったかもしれない。
この展覧会いくつかのパートにわかれていて、最後のパートがドローイングだった。点数の多い展覧会だったし最後のころにはだいぶ疲れてもいて、「ドローイングって趣味? 別に写真を見に来たんだしなー」と思ってほとんど飛ばしてしまったんだけど、バイオグラフィをきちんと読むと、1970年代の中ごろには写真をやめてデッサンに専念するようになっていたのだと言う。初めて知った。
何で写真やめちゃったんだろう?
これはもう『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』を観ろってことかもしれない。写真集については『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集成』と『Henri Cartier-Bresson: Scrapbook』を買えばよさそう。神保町の三省堂本店で買おうかどうしようか迷った『ポートレイト 内なる静寂―アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集 』はAmazonでは在庫切れになっている。これはひょっとして三省堂で買うしかないのか?
あー…公私ともに大変忙しいのだが(読むものが山積みという意味だ)、ひょっとして私はまた自分で自分の首を絞めようとしているかもしれない。気になるじゃないか。まずはカタログの文章を読むところから。
美しい文字 ― 2007-05-26
…いやーこれまで、MacユーザがMacを選ぶ理由など想像もしたことなかったけど、MacにはOsakaフォントがあるのだった。MS ゴシックと較べるとはるかにきれいで、可読性が高い。あれに慣れちゃったら、今更Windowsの汚い文字なんか見たくないのかもしれないな。しかもあれだ。デザイナー向けの商用フォントでさえもあの程度だということは、問題はフォント自体ではなくてWindowsのフォントレンダラにあるのだろう、きっと。Vistaでは何か対応するって話だったけど、枯れるまでは乗り換えるつもりもないし。
そういえば、美術にも様々あるけど、書だけはどうにもよくわからない。私はフォントや筆跡にはうるさくても、それらはどちらかといえば印欧語族ぽいカリグラフィの領域に属するように思われる。書というのはどうにも---何を見ればいいのかよくわからん。おお、ここで押しつけてここで力を抜いてこう払うのか、と筆の動きを追いかけてって…で、何なんだろう、と。コーランは見ているだけで美しいけど、掛け軸とか、たいがい地味だしさ…。漢字がかっこよく見えればいいのか? 美しい書だったら、見てすぐ美しさがわかるんだろうか。(そうは思えない。少なくとも書は、絵画ほど単純にその美をわかったような気にさせてはくれないだろう。そういう美もある。訓練なしにわからないからと言って、美しくないというのではない)
何かいい本はないかとAmazon「書道」カテゴリを見てみたら、『えんぴつで奥の細道』とか相田みつをが出てきた。脱力。
美術館めぐりの日々 ― 2006-10-04
ターナーの絵、実物をまともに見たのはこれが初めてなのですが、このひとの絵は大きくないとだめですね。画集で見て好きだった絵のうちの一枚『雨、蒸気、速度----グレート・ウェスタン鉄道』を見てしみじみそう思いました。隙間を残さない、ある意味で偏執的に充溢した画面を構成しているのかと思っていたら、なかなかどうして、適切な大きさの絵を適切な距離から見たら、全然そんなことはありませんでした。
イタリアの部屋にはカラヴァッジョが三枚あって、中ではいちばんサイズの小さい『トカゲに咬まれた少年』に描かれた少年の、どうにもちょっと病的なものを感じさせる官能が、場違いなくらい濃かったです。それからゴヤの小品で一枚、とても気に入った絵がありました。
テート・ギャラリー、これは日曜日の午後に行ってみたのですけど、場所があんまりよくないせいか人もそれほど入っておらず、ターナーと彼のフォロワーの絵がずらりと並んだ一角は正直、期待ほどには面白くなかったです。年をとってから通いつめるにはよさそうな、人の目を引きにくく飽きにくい退屈さがあるギャラリーに思われました。どういう展示だか一角だけアフリカの現代美術作品を扱っていて、中に数枚の肖像画がありました。完全に西洋画の技法で描かれた、黒人の少女の肖像です。
ロンドンの雨は日本とはちがって、しっかりと降ることがあまりないようです。降り出してはすぐにやみ、それを繰り返すような雨の降り方です。その日は午前中アールズ・コートを散歩して、午後からギャラリーに行ったのですが、こうも長時間狐の嫁入りが続くものかという天気雨のなか古い墓地を歩き、地下鉄に乗って、テート・ギャラリーの最寄り駅のピムリコウについたときも、やはりささやかな天気雨が降っておりました。ピムリコウはテムズ川を渡る幹線道路以外には物寂しいほど静かな、落ち着いた街で、歩いている人もみな一様に言葉少なで静かです。東京で言うなら文京区当たりの古い住宅街みたいな感じでしょうか。
それに較べるとテート・モダンの派手なこと。発電所を改築したという建物も素敵なのですが、それ以上に、テムズ川を挟んで真正面にセント・ポール寺院が見え、その間をミレニアム・ブリッジという華奢な橋が架かっているというロケーションが大きいのでしょう。バウハウス以前のカンディンスキーというあんまり一般受けしなそうな特別展をやっているにも関わらず、ずいぶんと人が入っていました。いちばんよかったのはカンディンスキーの最初期、恋人と過ごした避暑地の町を描いた小品で、まだ具象に近い形と濁りの少ない色で構成された小さな街の目抜き通りとそれを照らし出す陽光とは、カンディンスキーがこんなにもハッピーな絵を描いた時代があったのかという気分にさせるものでした。
テート・モダンには二度行きました。後一度くらいは行くと思います。一度目は金曜日の夜で、金曜日は夜十時まで開館しているというのも知らずに行ったのですが、ミレニアム・ブリッジの途中で振り返ると、青ざめて浮かび上がるセント・ポールの姿は美しくも圧倒的なものでした。また、テート・モダン側から橋を渡るときには、おそらく意図的にでしょうが、まるで川底へ下っていくように傾斜がついているのでした。そのとき真正面にセント・ポールが見え、これから橋を渡るのではなく、セント・ポールの地下に隠された秘密の墓所にでも入っていくような気分になるのです。
IT WAS ALWAYS BURNING ― 2006-08-27
公式サイトの言葉を借りれば「ビリー・ジョエルの名曲とダンスに乗せて送る愛と青春の輝き」なのだが、実際はバレエだった。主要登場人物のせりふは一切なし(おかげで正直、ストーリーがよくわからない部分があった)。何でも2003年のトニー賞で最高振付賞を獲ったそうだが、振付のよしあしがわかるほど目が肥えていないので、「よく飛ぶなあ、おおおすごい回転」という感嘆が先に立ってしまうのだった。ダンサーにせりふがない分、歌うのはぜんぶピアノマンで、このひとの歌はとてもよかった。残念ながら、「ピアノマン」も「素顔のままで」も「オネスティ」も劇中では使われなかったけど。
"We didn't start the fire"は今回あらためて面白かった。1949年のビリー・ジョエルが、自分が生まれた年から発表当時に至るまでの出来事をどんどん並べていく。夫婦で名前が挙がってんのはジョー・ディマジオとマリリン・モンローだけだなあとぼんやり気づいたりする。
途中休憩の時間みなせさんが「フー陥落のフーってどこでしょうね?」と言っていたのは、今歌詞を検索したらディエン・ビエン・フーだった。字幕に出すには長すぎたのだろう。わからないねたはたくさんあって、最初のほうに出てくるサウス・パシフィックとか、アラバマってアラバマ州なのかとか、「ロックンローラーとコーラ戦争」って何なんだろうとか、数え上げればきりがない。
いくつかのボクシングねたも登場する。シュガー・レイはシュガー・レイ・レナード、マルシアーノはロッキー・マルシアーノで、「リストンがパターソンを負かした」というのは、フロイド・パターソンが1ラウンドKOで負けた試合だ。いやー年をとるってわかるねたが増えるってことだなあ。でもモハメド・アリは出てこない。
それにしてもこの歌でビリー・ジョエルは"We didn't start the fire"と歌っているのだった。この歌がヒットしたというのは、曲のおもしろさはもちろんだけど、この歌が発表されたときのビリー・ジョエルを聴くファンの人々の心情にフィットした、ということなんだろうか。「俺たちが火をつけたわけじゃない/気がついたときにはもう燃えていた/俺たちが火をつけたわけじゃない、本当だ、つけてない/でも何とかここまで戦おうとしてきたんだ」
ぜんぜん関係ない話をひとつ。このあいだ読んだ『私家版・ユダヤ文化論』で著名なユダヤ人ミュージシャンを列挙する部分がある。ボブ・ディランとかポール・サイモンとか。ビリー・ジョエルの名前ももちろん挙がっていた。
それで思い出したんだけど『Mr. & Mrs. スミス』で、お互いに隠れて殺し屋をやっていたことがわかったブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリー演じるスミス夫妻が、毒を食らわば何とやら、これまで相手に隠していたことをどんどん暴露するシーンがある。実は料理は部下につくらせてたとか、MIT卒っていうのは学歴詐称で本当は美術史だか何かを専攻してたとか、本当は孤児で…とか。
このシーケンスは、アンジェリーナ・ジョリー演じるスミス夫人の"I'm Jewish."というせりふで終わる。スミス氏の反応は描かれないままだ。ユダヤ人であるっていうのは、暴露のいちばん最後に来るようなことなのか…と思わないでもない。
セックスと暴力 ― 2006-03-06
週末、向ヶ丘遊園の岡本太郎美術館へ遠足に行った。(この日は岡本太郎美術館と切手の博物館という、二つのニッチなミュージアムを訪ねる遠足だったのだ)
美術館へ入る前にテラスでお茶を飲んだのだけれど、池の中に配置されたオブジェは、何というか…女性器か肛門みたいだった。へええこんななの?と思って中に入ると、それはもう分かりやすくセックスと暴力の世界なのだった。特に1940年代に制作された絵画作品に顕著な傾向で、炎みたいな朱色と閃光めいた黄色が、黒いよどんだ背景に散り、暗い鉄のような青色と流れる血の色が、かたちの定まらない不吉な割れ目からあふれ出しているかのようだった。ああ、戦争の絵なのか。
その後の展示スペースでは、椅子や彫刻作品の方が多かった。どうも岡本太郎にとっては、びょんびょん飛び出しているのが「よきもの」の象徴なんではないかと思う。繊維強化プラスティックやブロンズの作品には、どれも彗星の引く短い尾みたいなものが何本もくっついていた。撫で回し抱きしめたいほど好きな彫刻があったとして、部屋に置いて折に触れ愛でるためには、はっきり言って、邪魔だろうなあ。刺さるし。その一方で、「渾沌」というしばしばよろしくない意味を持つ言葉をタイトルに含んだ彫刻は、驚くほどシンプルな四角柱をベースにしているのだった。確かに、岡本太郎にとって「よきもの」とはすべて、外へ向かって放たれるものなのだろう。