Truly Brilliant II2009-09-13

シルバーウィーク? PC持って帰ってきて仕事するつもりだけど? な9月。現実逃避に精が出るのは勘弁しておくんなさい。

都筑道夫はもともと「退職刑事」シリーズと「滝沢紅子」シリーズが大好きだったのだが、「なめくじ長屋」シリーズがすごい。身分的には「非人」とされる大道芸人たちばかりが暮らすなめくじ長屋、得体の知れない知恵者の「砂絵かきのセンセー」を中心に、通りで稼ぐ非人たちが手足となって事件を解決する連作短編だ。これがもう、設定も相俟って面白いの何の。中でも垂涎が『ちみどろ砂絵』第三席の「春暁八幡鐘」で、風呂桶を盗み出すシーン。何と行燈凧があがる。

直方体の枠組に白紙を貼って、なかに蝋燭が立ててある。これを、五本か七本の糸目であげるのだから、やさしくはない。いいかげんにあげれば、とちゅうで蝋燭が消えてしまうか、火が紙に燃えうつって、凧をだいなしにしてしまう。うっかり落せば、火事になる。ところが、なめくじ長屋には、凧あげの名人がいた。がらにもなくテンノーで、それがいま幽霊坂上で、行燈凧を北風にのせているのだった。夜だけにあげて、しばしば火事を起こすので、行燈凧は禁止されている。だから、あげているところを見つからないように、若宮八幡の社殿の裏手にもぐりこんで、テンノーは糸をあやつっていた。

ちなみにこのテンノーの職業は、

猿田彦の面をかぶって、「わいわい天王、囃すがお好き。はやしたものには、お札をやろう。それ、まくよ。まくまくよ。まくよ」と、小さな紅刷の牛頭天王の絵すがたをばらまきながら、銭をもらってあるく

…んだそうである。うわぁ何かもう好みすぎてどうしようかと。都筑道夫は推理作家としてはパズルゲーム的な論理性を軸にしていて、一見派手に見えても細かい原因と結果の積み重ねで話を作る傾向がある上、キャラクターものの時代の人ではないからか、登場人物の扱いも淡々としている(そりゃ、主人公たるセンセーは頭は切れるわ喧嘩も強いわのヒーローだけど)。そこがまた、全編非人たる長屋の住人たちが江戸を駆け回るこのシリーズでは、軽やかなノワール風味でよい。あんまり人情に傾かれると飽きが来やすくなるから。

話は逸れて、「当時はこのあたり、江戸でも指おりの巣乱(すらむ)だった」とされるなめくじ長屋のある場所は、「馬喰町三丁目にある初音の馬場の西っかわ」と説明される。「いまの東神田一丁目へん」なのだそうだ。東神田一丁目がどこかはわからないが、まともじゃない部屋を借りるんだってずいぶん高いことだろう。時代は変わる。牛込の高台で凧をあげるのはできない相談だ。

ボニーとブランチ2009-09-15

帰宅したらたまたまテレビで『俺たちに明日はない』をやっていて、遅い晩飯を食べながらつらつらと、ブランチの目が見えなくなるあたりを眺めていた。

『俺たちに明日はない』のフェイ・ダナウェイは強烈に切羽詰まってて、ついでに足場がない。フェイ・ダナウェイのボニーについてのコメントの中でいちばんすごかったのは橋本治だ。

そこが"家庭"じゃなかったら、ボニーにだって居ようはある。"意識的な女"というのは、個的にならざるをえなきゃならない訳だから、孤独であることには強い。「自分は自分」で、なんでも一人でやってのけられるけれど、でも"家庭"というところは、そういう女になんの役割も与えてはくれない。C・W・モスとクライドと、その兄貴とその嫁さんの夫婦は、平気で"食後の団欒"をやっている。

橋本治の『虹のヲルゴオル』から。ちなみにこの文章の後には、一度では足りない「でも」が来る。一度目は「でも、苦しいのはボニーだけじゃない。」で、兄貴の嫁さんである「カマトトの専業主婦」ブランチから見た逃避行の生活について言及される。その後ちょっと間を置いてさらに「でも、ブランチだって不幸だ。」と続く。

 でも、ブランチだって不幸だ。警察に追われて、夫は射殺されて、自分は目を撃たれて盲目になってしまう。もう"外"は見えない。でも、見つめるべき自分の内部には、なんにもない。「一体"自分"てなんだろう?」----そう思った時、彼女にはなんにもなかった。そんな身動きの出来なくなった彼女を、カメラはただ黙って写している。
 ボニーのようなあり方を拒絶したら、"女"というものの中には空白しかない。

これが自分の職場でなくて幸いなのだが、職場結婚して奥さんは寿退社という男が職場で出会った独身の女の子と不倫して、奥さんは当然なにかを疑い、職場の「こども参観日」だか「ファミリーデー」だかに乳飲み子を抱いてやってくる…というようなおそろしい出来事を肴に飲んだ。でもこの部分を読んでたら、不倫のぬかるみがなくてさえボニーとブランチが仲が悪い理由を、思い切り見せつけられた気がしたよ。

そういえば、ボニーは一度喚き散らすブランチに腹を立てるあまり車を飛び出して、宥めようとするクライドと喧嘩する。激高したボニーは「あなたのお兄さんのあなたとの違いは、お兄さんはベッドで何かするってところ」みたいなことを口走るのだ。橋本治はさらに続ける。

世の中の外で"犯罪者"となった"少年"は、自分自身の真実に従って、その真実を"不能"という屈辱によって購った。

不能のクライドと銀行強盗に手を染めた"意識的な女"ボニーと、"大人の男"である兄貴にくっついてきただけの"専業主婦"ブランチか…待てよ、ボニーとクライドの名声を聞きつけて「仕事を手伝おう」とやってきたクライドの兄貴バック、こいつは何者なんだろう? …単なるバカ?

アウトサイダーズ/アウトローズ2009-09-19

なめくじ長屋シリーズ、『血みどろ砂絵』から『くらやみ砂絵』『からくり砂絵』と続いて、四作目の『あやかし砂絵』までやってきた。ネタはやっぱり二作目くらいまでの方がよく出来てるけど、次の『きまぐれ砂絵』は全編が落語を下敷きにしているということで期待が高まる。このシリーズは何かあったときのために取っておこうかなーと思いもしたが、飽きるまでは素直に読みあさることにする。

シリーズ中おどろいた場面はいろいろあるが、『くらやみ砂絵』の一篇での「おもしれえ儲けぐちが、舞いこみましてねえ。二分、前払いで、娘っこをひとり、ひっかついでくれってんです。」なんてのはちょっと考えられないようなネタだ。何しろ「かつぐ、というのは、かつがれた下女はさせもが露だらけと川柳にもあって、つまり輪姦することだ。」と解説が続く。別の一篇でセンセーの言うことには、

おれたちは不浄役人でもなけりゃあ、まして神さま、仏さまでもねえ。政府(おかみ)を助けるためや、ひと助けのために、謎をといているのじゃあねえんだ。しくじったか、しくじらないかは、いくら儲かったかで、きまるのさ。(中略)見なよ、けっこう、ひと助けにもなっていらあな

だそうだが、粋がりに聞こえないのは、娘っこをかつぐ依頼がくる、しかも「おもしれえ儲けぐちだ」と言っちゃうからだ。『池袋ウェストゲートパーク』でも「政府を助けるためじゃない」とは言えるだろうが、そこから先のせりふは口が裂けても言えないはずだ。

これが成立するのは「時代もの」という読者の現実との距離感や、時代が江戸だけに社会階層が安定していてひっくり返ったり交わったりすることがほとんどない、という前提の安心感が大きいんじゃないかと思う。現代ものでこれをやったら----安直に考えると新宿か新大久保あたりのホームレスかアンダーグラウンドな一団が謎解きと強請りをやるんだろうが、ちょっと凄惨で読めたものではないだろう。なめくじ長屋の面々はアウトサイダーだがアウトローとはちょっと違う。長屋に住んでるくらいだから決まった住処も生活もあるが、体制から見れば「常人の七分の一の身分しかない」という「非人」であり、生業は法には触れないが人間扱いはしてもらえない。センセーは言う。

おれにもあんたの気持がわからなくはないが、浮草ぐらしの気楽さと真実を味わうには、辛いことのありったけに耐えての果だってのを、知りすぎている。

ワイルドサイドを歩け2009-09-21

-雨宮 貧乏人には自己責任を押しつけて、俺たちの税金を怠けた人間に使うな、そういうことですよね。
-飯田 僕が思っているのは、雨宮さんにとって右翼の頃からずっと敵であるのは、いわゆる日本的な「世間」なんじゃないかと。
-雨宮 ああ、それはあるかもしれないですね。
-飯田 自由競争はよくない、さりとて貧しい人を助けるのもよくない。これは「世間」に後ろ指をさされない生き方をしている人は守るべきで、後ろ指をさされるような奴は自己責任、ということかと思います。
 こういう日本的な空気とでもいうべきもん。それがいちばん怖いんです。(後略)

『脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる』より。この本、売れてるみたいだけど、もっともっと読まれるべきだと思う。読まれるべきだと思うのと関係なく、読んでいていちばん刺さったのが上記の箇所だ。

日本的な「世間」が怖いのは、「世間様」の基準に照らし合わせると非難される側の人間が、その基準をないがしろにするでも蹴散らすでもなく、内面化していくからだ。実際には誰も表だって後ろ指をささないかもしれないが、表だって後ろ指をさされたわけでもないのに何か後ろめたいと思うようになり、己の窮状を自己責任として引き受けるようになり、無駄に自罰的な考えに足を取られて身動きが取れなくなっていく。規範はそれが「押しつけられた」ものである限りはどうとでもなるが、下手に内面化されると手のつけようがない。

ときどき考える。最初に就職するときは、三年、「世間」でやっていけるかどうか試してみようと思っていた。三年が過ぎて何とか仕事もやってけなくはないことがわかり、転職したいなーと思って、まあ2008年までに次の仕事先を見つけないとやばいなと思って転職した。その目論見はある意味当たったわけだが----当たって嬉しくも何ともないまま、転職先で二年目。私はなめくじ長屋の非人たちがいる世界に生きているわけではないが、同僚と喋っているときなんかに、ふと愕然とする。今の私の同僚たちは出自も来歴も大変に恵まれていて、それを当然のこととして享受した上で、キャリアや結婚について悩んでいる。たとえば、早稲田の理工学部を出た帰国子女(父親は大手メーカー勤務の管理職)がワークライフバランスについて悩む、みたいな。女の子の悩みを純化すればすべて『セックス・アンド・ザ・シティ』な世界。それがマジで深刻な悩みだ、ということに最初は驚いていたが、だんだん当たり前のようになってきた。

かつては自分からいちばん遠いものとしてキャリアだのワークライフバランスだのダイバーシティだのを位置づけ、そんな悩みは無用で無益だと断言していたのに、気がつくと自分もその基準を内面に抱えこんで「うまくやれているか、いないか」を判断するようになっている。世間様に混じって働きながら、己が身をそのアウトサイドにキープしておけるなんていうのは、ずいぶん甘い考えだったわけだ。挙げ句、他人様のことまでその基準でジャッジしたりする----それこそ、かつて自分がもっとも嫌がったものじゃないか。

今さら降りるつもりはないが、アウトサイドを棄てたくはない。ま、結婚のきざしがない三十代の女だってだけで充分にアウトサイドだと祖母なら言うだろうが----ルー・リード先生、何とか言ったってください。

She said, hey babe, take a walk on the wild side
I said, hey honey, take a walk on the wild side

With / Without the Formula2009-09-28

なめくじ長屋シリーズ第5作『きまぐれ砂絵』とコーマック・マッカーシー『越境』を並行して読んでいて、ハーレクインと本格推理(の連作短編)が似ているような気がしてきた。

ハーレクイン・ロマンスは最短二時間程度で読み終わる、水戸黄門的様式美のエンターテイメントだ。何がすごいって基本的には二度と同じヒーローとヒロインが登場しない、という点だと思う。最近はサスペンスやミステリーの要素を取り入れたロマンス小説もあるようなので、そうした設定なら同じカップルで連作を作ることも可能だろうが、いわゆる伝統的なハーレクインにかんして言えば、○○シリーズと銘打っていた場合でさえ同一のヒーローとヒロインは登場せず、世界観を共有しているだけのケースがほとんどだ。聞くところによればハーレクイン社のロマンスにはガイドラインが存在し、それに則って生産されるんだそうだ。しかも、伝統的に好まれる題材というのはある程度決まっているらしく、かくしてハーレクイン世界には数え切れないボスと秘書、数え切れないアラブの王子様、数え切れないギリシアの億万長者が溢れかえることになる。

ハーレクイン・ロマンスには必ず決着がつく。間違いなく愛の成就で、大抵の場合は結婚で、オプションで子供がついてくる。お話はそこで終わり、ヒーローとヒロインは主人公の座を次のカップルに譲る。来月はまた別の無垢なヒロインが「危険なほどセクシー」な男から目を離せなくなるだろう。もし読者があるカップルを気に入ったとしても、彼らは二度と表舞台に出てこない。それがハーレクインというものだ。(おそらくは同じ理由で、ハーレクインの愛好者が読んだ話について誰かと語るとき、登場人物の名前ではなくて「ヒーロー」と「ヒロイン」と言うのだろう。固有名詞をあまり使わない。ボーイズラブ漫画の愛好者が「攻め」と「受け」で語るのとちょっと似ている。)

それで何だって? 私は連作短編が好きで、本格推理ものの長編はあまり好きではないが連作短編の形式ならよく読む。で、ハーレクインというのは、ものすごく変則的な連作推理短編みたいなもんなのかなと思ったのだ。世の中の物語は実に多種多様だけど、ハーレクインにはガイドラインに従ったハッピーエンドしか存在しない(『風と共に去りぬ』はその点で、大河小説ではあってもハーレクインではあり得ない)。…よく似ている。推理ものには必ず謎があり、必ず決着がつく。ガイドラインがなくてもこのフォーミュラは崩せない。謎と解決がなければ本格推理ではなくなってしまう。大丈夫、最後まで読めば物語は終わる。一方、本格推理以外に好むフィクションを並べてみると、物語が終わっても決着がつかないことが少なくない。あるいは舌が痺れるようなビターエンド。

私が連作短編の推理小説を読むのは風邪気味のときとか現実逃避したいときとか、とにかく何かヘビーな物事を避けて通りたいときが多い。マロングラッセのこってりした甘さのようなハーレクインではないが、抹茶の苦みのあるババロアくらいには甘さもある。何せそこでは、結果には必ず対応する原因が存在し、謎と見えたものがすべて解決されるのだ。それを責めても意味がない。そういう形式こそがハーレクインであり本格推理を成立させているのだから。ところで、マッカーシーはいつもこんな具合だ。

彼は人間が自分のためになる賢明な行動を取る力を持っているとは信じていなかった。むしろ彼はどんな主張にもとづく行動もすぐにその主張者の手を離れてしまい予期しない混乱した結果をもたらすだけで終わると考えていた。この世界には別の計画表、別の秩序があり彼が支持する考え方はそれがどういうものであるにせよそういう世界の力と関係していると信じていた。とりあえず彼としては自分でも何だかわからないものに呼び出されるのを待っているのだった。