ワイルドサイドを歩け2009-09-21

-雨宮 貧乏人には自己責任を押しつけて、俺たちの税金を怠けた人間に使うな、そういうことですよね。
-飯田 僕が思っているのは、雨宮さんにとって右翼の頃からずっと敵であるのは、いわゆる日本的な「世間」なんじゃないかと。
-雨宮 ああ、それはあるかもしれないですね。
-飯田 自由競争はよくない、さりとて貧しい人を助けるのもよくない。これは「世間」に後ろ指をさされない生き方をしている人は守るべきで、後ろ指をさされるような奴は自己責任、ということかと思います。
 こういう日本的な空気とでもいうべきもん。それがいちばん怖いんです。(後略)

『脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる』より。この本、売れてるみたいだけど、もっともっと読まれるべきだと思う。読まれるべきだと思うのと関係なく、読んでいていちばん刺さったのが上記の箇所だ。

日本的な「世間」が怖いのは、「世間様」の基準に照らし合わせると非難される側の人間が、その基準をないがしろにするでも蹴散らすでもなく、内面化していくからだ。実際には誰も表だって後ろ指をささないかもしれないが、表だって後ろ指をさされたわけでもないのに何か後ろめたいと思うようになり、己の窮状を自己責任として引き受けるようになり、無駄に自罰的な考えに足を取られて身動きが取れなくなっていく。規範はそれが「押しつけられた」ものである限りはどうとでもなるが、下手に内面化されると手のつけようがない。

ときどき考える。最初に就職するときは、三年、「世間」でやっていけるかどうか試してみようと思っていた。三年が過ぎて何とか仕事もやってけなくはないことがわかり、転職したいなーと思って、まあ2008年までに次の仕事先を見つけないとやばいなと思って転職した。その目論見はある意味当たったわけだが----当たって嬉しくも何ともないまま、転職先で二年目。私はなめくじ長屋の非人たちがいる世界に生きているわけではないが、同僚と喋っているときなんかに、ふと愕然とする。今の私の同僚たちは出自も来歴も大変に恵まれていて、それを当然のこととして享受した上で、キャリアや結婚について悩んでいる。たとえば、早稲田の理工学部を出た帰国子女(父親は大手メーカー勤務の管理職)がワークライフバランスについて悩む、みたいな。女の子の悩みを純化すればすべて『セックス・アンド・ザ・シティ』な世界。それがマジで深刻な悩みだ、ということに最初は驚いていたが、だんだん当たり前のようになってきた。

かつては自分からいちばん遠いものとしてキャリアだのワークライフバランスだのダイバーシティだのを位置づけ、そんな悩みは無用で無益だと断言していたのに、気がつくと自分もその基準を内面に抱えこんで「うまくやれているか、いないか」を判断するようになっている。世間様に混じって働きながら、己が身をそのアウトサイドにキープしておけるなんていうのは、ずいぶん甘い考えだったわけだ。挙げ句、他人様のことまでその基準でジャッジしたりする----それこそ、かつて自分がもっとも嫌がったものじゃないか。

今さら降りるつもりはないが、アウトサイドを棄てたくはない。ま、結婚のきざしがない三十代の女だってだけで充分にアウトサイドだと祖母なら言うだろうが----ルー・リード先生、何とか言ったってください。

She said, hey babe, take a walk on the wild side
I said, hey honey, take a walk on the wild side

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