With / Without the Formula2009-09-28

なめくじ長屋シリーズ第5作『きまぐれ砂絵』とコーマック・マッカーシー『越境』を並行して読んでいて、ハーレクインと本格推理(の連作短編)が似ているような気がしてきた。

ハーレクイン・ロマンスは最短二時間程度で読み終わる、水戸黄門的様式美のエンターテイメントだ。何がすごいって基本的には二度と同じヒーローとヒロインが登場しない、という点だと思う。最近はサスペンスやミステリーの要素を取り入れたロマンス小説もあるようなので、そうした設定なら同じカップルで連作を作ることも可能だろうが、いわゆる伝統的なハーレクインにかんして言えば、○○シリーズと銘打っていた場合でさえ同一のヒーローとヒロインは登場せず、世界観を共有しているだけのケースがほとんどだ。聞くところによればハーレクイン社のロマンスにはガイドラインが存在し、それに則って生産されるんだそうだ。しかも、伝統的に好まれる題材というのはある程度決まっているらしく、かくしてハーレクイン世界には数え切れないボスと秘書、数え切れないアラブの王子様、数え切れないギリシアの億万長者が溢れかえることになる。

ハーレクイン・ロマンスには必ず決着がつく。間違いなく愛の成就で、大抵の場合は結婚で、オプションで子供がついてくる。お話はそこで終わり、ヒーローとヒロインは主人公の座を次のカップルに譲る。来月はまた別の無垢なヒロインが「危険なほどセクシー」な男から目を離せなくなるだろう。もし読者があるカップルを気に入ったとしても、彼らは二度と表舞台に出てこない。それがハーレクインというものだ。(おそらくは同じ理由で、ハーレクインの愛好者が読んだ話について誰かと語るとき、登場人物の名前ではなくて「ヒーロー」と「ヒロイン」と言うのだろう。固有名詞をあまり使わない。ボーイズラブ漫画の愛好者が「攻め」と「受け」で語るのとちょっと似ている。)

それで何だって? 私は連作短編が好きで、本格推理ものの長編はあまり好きではないが連作短編の形式ならよく読む。で、ハーレクインというのは、ものすごく変則的な連作推理短編みたいなもんなのかなと思ったのだ。世の中の物語は実に多種多様だけど、ハーレクインにはガイドラインに従ったハッピーエンドしか存在しない(『風と共に去りぬ』はその点で、大河小説ではあってもハーレクインではあり得ない)。…よく似ている。推理ものには必ず謎があり、必ず決着がつく。ガイドラインがなくてもこのフォーミュラは崩せない。謎と解決がなければ本格推理ではなくなってしまう。大丈夫、最後まで読めば物語は終わる。一方、本格推理以外に好むフィクションを並べてみると、物語が終わっても決着がつかないことが少なくない。あるいは舌が痺れるようなビターエンド。

私が連作短編の推理小説を読むのは風邪気味のときとか現実逃避したいときとか、とにかく何かヘビーな物事を避けて通りたいときが多い。マロングラッセのこってりした甘さのようなハーレクインではないが、抹茶の苦みのあるババロアくらいには甘さもある。何せそこでは、結果には必ず対応する原因が存在し、謎と見えたものがすべて解決されるのだ。それを責めても意味がない。そういう形式こそがハーレクインであり本格推理を成立させているのだから。ところで、マッカーシーはいつもこんな具合だ。

彼は人間が自分のためになる賢明な行動を取る力を持っているとは信じていなかった。むしろ彼はどんな主張にもとづく行動もすぐにその主張者の手を離れてしまい予期しない混乱した結果をもたらすだけで終わると考えていた。この世界には別の計画表、別の秩序があり彼が支持する考え方はそれがどういうものであるにせよそういう世界の力と関係していると信じていた。とりあえず彼としては自分でも何だかわからないものに呼び出されるのを待っているのだった。