ホテルの部屋で会おう2010-02-03

彼氏のことなんか忘れなよ
ホテルの部屋で会おう
友達も連れてきちゃいなよ
ホテルの部屋で会おう

PITBULLの"Hotel Room Service"より。2009年の各ジャンルのベスト、みたいな記事を元に普段は聴かないジャンルの音楽を漁っていて、「2009年最強のパーティー・アルバム」と評されたアルバムに行き着いたのだが、ああこれ『ワイルドスピードMAX』のBGMに使われていた人だ、とすぐにわかった。若々しく脳天気で常夏で、見たくないものを見ないのじゃなくて目に入らない。目を背けてはいない、夢中で踊らなきゃいけないだけだ。オフィシャルヴィデオでは女の子たちの肉感的なことに目を奪われつつ、格好つけてるアホがいっそ無邪気に見えてくる。

『ワイルドスピードMAX』はろくな映画ではなかったが、それでもアメリカでは結構売れたそうで、いったいどういう若者が観に行ったのかなぁという疑問が氷解したような気分だ。こういう音楽を聴く層へ向けた映画だったのか。これが売れるなら『ワイルドスピードMAX』も売れるだろう。

Keep Silent2010-02-06

祖父は西洋かぶれの伊達男だった。ファッション業界に片足を突っ込んだ仕事をして、コーヒーと煙草を友達にプルーストを読むような人で、私がシックなレディになれるかどうかを心配していた。彼がときどき戯れに描いてくれたファッションイラストレーションふうのらくがきから察するに、シックなレディの理想像はココ・シャネルみたいなものだったんじゃないかと思うが、まあそれは無理にしても。言葉遣いが汚いとか、本を読むときの姿勢が悪いとか、物音を立てすぎるとか。

仕事先に耳の聞こえない女の子が結構いて、仕事で関わったことはないのだが、エレベータや女子トイレなんかで一緒になるとちょっと不思議な感じがする。職場で目にする女の子の手というと、どうしても、キーボードの上でステップを踏むような動きが連想されるのだが、ものすごい速さで交わされる手話の指の動きは、まるで綾取りの糸みたいだ。

ただし無音ではない。彼女らの幾人かは、いつも怒っているかのような音を立ててドアを閉める。いつも苦しそうな呼吸音が聞こえる女性もいる。あるいは小さな唸り声。物音はたぶん、耳の聞こえる人より多いんじゃないかと思う。

当たり前か。もし、彼女らの世界に、音がないのなら。

彼女らが抱えている障害がどういうものか詳しいことはわからないが、音がない世界にいるのなら、上品であることの条件に「音を立てずにごはんを食べる」ことは含まれないだろう、きっと。交わされる手話の指の反り方や表情の示し方で、上品さやシックであることが達成されるのだろう。もし私の耳が聞こえなかったとしても、祖父は、足音が大きすぎると私をたしなめただろうか?

金曜日の夕方、女子トイレでコンタクトレンズをはずしながら(長い夜への備えだ)、乱暴に閉められたドアを見送って「かわいい子なのになぁ、おい」と思ってから気がついた。彼女は耳が聞こえないのだ。ひどく不当なことを言ったように感じた。だけど耳の聞こえる私は、物音の大きさを品がないことと思う文化に育ち、そのように教育され、それを切り離すことがもはやできない。一瞬どうしたらいいのかわからなかった。

Moving is tranquility.2010-02-08

情けないことに『すべての美しい馬』を読み進める時間さえろくに取れていない----おかげでジョン・グレイディとロリンズの二人はいまだ途上にあり、まだまだ先は長そうだ。いっそこのまま、ずっと馬上にあってくれてもいいのだが。馬に乗って南へ向かう二人の青年と、空は広く、空気は乾き、夜は冴え冴えと暗く遠くに稲光、コヨーテの遠吠え、焚火の赤さが目に沁みるような世界を、ずっと旅していてくれという気分になってきた。どこにも辿りつかなくてもいい。西部の描写に『ブラッド・メリディアン』がこだまして、まだ抜け出せていない気がする。

デヴィッド・リンチが映画化した小説『ワイルド・アット・ハート』は、これはもう断然バリー・ギフォードの原作に軍配が上がるのだけど、あれの帯は「動いているあいだは、俺たち、大丈夫だ」とか何かそんなのだった。わかる気がする。ただ移動していることが大事で、どこに辿りつくかは問題じゃない。

それで、牧場に辿りついたその先をなかなか読み進むことができないでいる。

After With Time2010-02-13

別に昨晩徹夜に近かったからではないと思うが、今日はえらく仕事の捗らない一日で、あまりの捗らなさに『爆笑レッドカーペット』とか観てしまった。今の時間になってから後悔しているが。後の祭りとはこのことである。私にとっても初めて見る芸人しか出ていなかったけど、一緒に観ていた家主はネタの半分は理解できないようで、まあ、それもそうかなという気がする。今はまだテレビ内世間との時間のズレがそれほどないから理解できるだけだ。家主が『ドラゴンボール』のネタを理解できないように、私にも、いずれそうやって理解できないものが増えていくんだろう。

そんな感じで仕事の合間はだらだらと本さえ読まずに過ごし、ニュースのチェックも怠っていたら、アレクサンダー・マックイーン逝去を知らせにロンドンから電話がかかってきた。Guardian紙では一面だったそうだ。Guardian紙の読者って何歳くらいなのかな、と家主のことを思い浮かべながら、最近訃報を聞いたときに習慣となりつつあるのだが、菊地成孔の速報を読みに行く。その後はYouTubeでマックイーンのショーを探していた。ファッションへの熱意を失って久しいので、世の中がこんなことになっていたのかとばかげた感慨を覚え、それは全部この二月の忙しさのせいのように思えたけど、そうではない、ただ単に離れていた時間が積み重なっただけだ。

Statistic Playlist2010-02-18

根暗な趣味なら捨てるほどあるが、中でもいちばん根暗なのは、iPodに入れたアルバムのアートワークをくるくるスクロールして眺める、というやつで決まりだな。しかも寝る前に。明日の朝は何を聴こうとか考えてにやにやしている。

最近はiPodのGenius機能ばかり使っている。アルバムではなく曲単位に選んでいくというプレイリストは私の音楽の聴き方をそう簡単には変えなかった。何となれば、プレイリストを作るのは手間暇かかるからである。かといってシャッフル機能では取り留めがなさすぎる。Genius機能では、起点となる曲をてきとうに選んで起動すると、ライブラリから同じテイストの曲を選んで勝手にプレイリストを編集してくれる。もうちょっと面白みのあるプレイリストを…と思うこともないではないが、決して悪くはない。いずれは「意外性重視」とか「とにかく同じBPMで途切れなく」みたいな指定もできるようになるのかな。で、いわゆるDJ的なミックスの作業というのも『その数学が戦略を決める』の世界になる日が来るのだろうな、とぼんやり思う。統計に基づいて決定されたミックスが、職業的な訓練を積んだDJに近づいてくる世界。

そういう言い方をすると、人間性とかオリジナリティとか新しさとかいう観点からの反論が簡単に予想されるが、だからといってプレイリストが「無機質でつまらない」ものになるとは限らない。DJが不要になるわけでもない(野田努の言う「新しいもの」のことを思い出す)。Genius機能についてはまだまだ改善の余地はあるにせよ、プレイリストがつまらない理由のいちばん大きなものは、ライブラリがつまらないことだ。

The UnderSide Business2010-02-21

本を読む時間は全然ないのに、反動のように音楽を漁っている。

CommonというHip Hop畑の人がいて、今月はじめて音楽を聴いたのだが、案外よくって驚いた。というのもこのCommon、Hip Hopのクリエイターとしてはさておき、どうにもならん感じの映画によく出ているのだ。『ウォンテッド』ではアンジェリーナ・ジョリー演じるフォックスの属する暗殺組織の一員、『ターミネーター4』では目のうるうるしたジョン・コナーの忠実な副官、『アメリカン・ギャングスター』では麻薬王フランク・ルーカスの弟、『フェイク・シティ』では麻薬の密売人。『スモーキン・エース』は観てないがまあ期待値は高くはない。顔と佇まいは嫌いじゃないので出てくると「あ、コモンさんだよ」と気づきはするが、どれも脇役で、しかも映画自体の出来映えがイマイチ。酷評するほどひどくはないけど見るべきものがそう多くない、ある意味いちばん記憶に残りにくい映画ばかりだ。

いったい何が楽しくて映画に出てるんだ? 大して面白くもない映画で型どおりの黒人の脇役をやるくらいなら、本業に精を出した方がいいんじゃないのか? …と正直かなり失礼なことを思っていたのだが、実際にアルバム三枚ほど聴いてみたら、いやこれが案外よいではないの。ますます、俳優業なんかやってるのが不可解になってきた。映画では、性格はなくて印象だけの脇役をやっていて、剣呑な顔つきや硬い目つき、ストリートベースで疑り深そうな黒人の役ばかりだが、音楽は意外なくらいのびのびと、アフロっぽかったりポップだったりするサンプリングの上で歌っている。少なくともこっちはちゃんと記憶に残る。

On and On2010-02-26

職場にいる青年のひとりは見た目も育ちも頭もいい。適度な体力と一定の教育、捻れのない自尊心をベースにした優秀な人だ。

彼がちょっとだけ風変わりに見えるとすれば、仕事を仕事として大事にする代わり、プライベートには一切かかわらせないようにしているところだろう。その辺、職場のメンバーでゴルフに行ったりするような「日本のサラリーマン」社会のおじさん達とはちょっと雰囲気がちがう。いや、人当たりは悪くない。むしろその逆だ。社交的で、人から話を聞き出すのがうまく、色んな人と色んな繋がりを持ってうまくやっている。見ていて学ぶところは多い。

じゃあ何がストレンジなのかと言うと、彼が「これは仕事だから」と明言するところだ。「この付き合いは人脈のためですから」ということをあっさり口にしてしまう。「同期に友達はいない」彼にとって、友達とは「仕事を離れた」場所で付き合いのある集団のことであり、どんなに仲がよく気が合いそうに見えていても「同期の佐藤くん」や「取引先の斉藤さん」は友達ではないらしい。しかもそのことを、まさに職場で、不意に口にする。メタな発言というか、ゲーム中にルールに言及するようだというか、私などはちょっとどきっとしてしまうけど、彼自身にはきわめて自然なことなのだろう。ためらいもないし、「怖いこと言うねえ」という同僚からの反応にも無邪気に驚いてさえいた。

彼は、職場の人間関係が面倒だとか偽善的だとか言っているのではないと思う。たぶん彼の友人達との付き合いの作法は、職場の人々との付き合いの作法とそう遠くないし、穏やかに会話しながら利害関係を意識しているわけではない。でも、それが人脈のためであると認識していて、明らかな目的のために行っているものでもある。そこだけ取り出すとスイッチのオンとオフがない。そしてそれが、古典的な「会社の人とのプライベートに渡る付き合い」をよしとする男の人たちからすると、少しばかり奇異に映ることもあるのだ。彼からすれば「オンとオフがない」のは古典的な男の人たちの方なのだが、私から見ると逆だ。

Votre Musique2010-02-27

『ゼロ年代の音楽---壊れた十年』の冒頭、「〇〇年代の孤独」と題した野田努の論考で、NME、The Guardian、Pitchforkの3メディアの2000年代の10年間のチャートを挙げている。The Guardianの1位であり、野田努がこの本の中で絶賛しているのがThe Streetsだ。恥ずかしながら私ははじめて聴いた。

いちばん売れているのは最初のアルバムである"Original Pirate Material"で、これは私もベストだと思う。野田努の評を引く。物語が否定され、シニカルな傾向を強めたこの時代において、スキナーは臆せず物語を語った。それは午前3時にクラブをうろついている人間の、路上に吹き曝されているちっぽけな物語の数々だ。スキナーはそれらを大切に拾い上げ、最新のガラージ・サウンドのうえでペンを走らせる。「セックス、ドラッグ、失業保険」---USラッパーの迫力と比較するとずいぶん見劣りする冴えないストリート・ライフに、この抒情詩人はとびきり優しい光を当てる。 なるほど、確かに。この評だけでも、ある種の音楽を漁る趣味の人には、ちょっと聴いてみようかなと思わされるんじゃないかと。

さて、私の個人的な感想としては、2008年のアルバム"Everything Is Borrowed"の1曲目、タイトルトラックが色んな意味で引っかかった。この曲ではガラージっぽさは薄れて、アレンジも割りと大仰だ。shabbyでcrummyなストリートライフに当たる優しい光。とかいうささやかなものではない。もっと勢いよく前向きで肯定的な詩を歌っている。

何も持たずにこの世に生まれ落ちた
そして愛以外何も持たずにこの世を去るんだ
ほかはぜんぶ、ちょっと借りているだけのこと

何を思いだしたかというとThe Verveの"Bitter Sweet Symphony"だ。人生はビターでスウィートなシンフォニーだという実にストレートで肯定的で感動的な歌詞が、単純で叙情的なメロディラインと、派手なオーケストラアレンジで歌われる。そういやあんまり歌がうまくないのも近いな。この曲、けっこうヒットしたのだけど、何じゃそりゃー!という気分になったのを思い出す。あんたこの間までいかにもドラッグやってそうな感じだったじゃん! 前向きになるにしても「俺はこれまで本当にしょうもない人生を送ってきた。でも今度こそ、今度こそうまくやりたいんだ」くらいの慎ましさだったのに! あんまりにも前向きになられると、経済的な成功がもたらす力の範囲を超えて「…どうかした? 何か変な宗教とかはまってない?」て気分になるじゃないか。いや大人になるってことかもしれないが、ヤンキーのお兄ちゃんが生き急ぐように「いつまでもバカやってらんねえよ」と言うようなもんなのかもしれないが、人が前向きに生きていこうとしていること自体を否定したくはないんだが…と、思わされたものである。

これって間違いなく、UKのストリート上がりのミュージシャン達の「大人のなり方」あるいは「人生の受け入れ方」あるいは「世界の肯定の仕方」のひとつの類型なんじゃないかという気がする。単調なメロディの反復とオーケストレーションによって歌われる世界の肯定。The Streetsに関して言えば、真髄を味わう前に結論を知ってしまったようで、若干居心地が悪いけど。