記憶の食卓2010-06-03

北品川のとある有名なレストランでは、ランチのロースとんかつセットが1,800円する。なかなかいいお値段だが、値段だけのことはあって、ちょっとレアっぽい分厚いロースにパン粉を薄くまぶしたパンフライのとんかつは、さぼてんや和幸で食べるとんかつとはまったく別の何かのようだ。たっぷり入った脂までうまい。千切りキャベツはふわふわで瑞々しく胡麻ドレッシングも香ばしい。また行きたいなと思うランチである。

しかし不思議なもので、その店のとんかつをまだ食べたことのない人が「とんかつを食べよう」と思って意気込んで訪れたとしよう。ぜんぜん予想もしていなかった形で充分に満足しながら、「…とんかつ食べたいな」とさぼてんを思い出すこともあり得るのである。ディープフライの衣、食べ応えのあるヒレ肉、ぱりぱりの千切りキャベツを思い出すことが。

食べ物の記憶というのは確かにあって、それは、料理を表す単語と結びつくことがある。「とんかつ」という単語の記憶と結びついた何かを期待するなら、そのレストランの「とんかつ」は、それこそ別の何かだろう。私にとって蒸し寿司は、京都のあの商店街の寿司屋で冬場の金曜日だけ店頭売りしていた、あの蒸し寿司だけだ。鶏レバーのパテはノースロンドンのあのガストロパブを思い起こさせずにおかない。切り昆布と大豆の煮物は祖母のレシピ以外で想像できないし、食べても美味しいと感じない。よくあることだ。だけど不思議なことだ。

味覚も鍛えなければ美味しさが理解できないことはままある。レストラン評論の友里征耶はよく、巷で騒がれるレストランの「味が濃い」ことを揶揄して、「若い頃に味が濃いものばかり食べつけた業界人向けの店」みたいな書き方をする。だけど、その「業界人」には、味が濃くないと美味しく感じられないわけで、それはそれで「美味しい」という評価のひとつの基準ではあるだろう。1,800円のロースとんかつがどれほど旨くても、800円くらいのロースかつ弁当でなければとんかつを食べた気がしない、という人もいるだろう。では「味覚を鍛える」っていうのは、どこに到達することを言うんだろうか? まるで、本人の記憶と切り離されたきわめて客観的な基準としての「美味なるもの」が存在するかのようだ。科学的に検証が可能な何かのようだ。

それはなかなか面白い考え方で、いろいろと試してみたくなる。『影響力の武器』にはレストランで行う心理学実験が出てきたが、そこでは、ワインの味よりもラベルの方が「美味しい」と思うかどうかに強く影響しているようだ、という結果が出ていた。化学的な観点で行くなら、きっと世の中の食品会社が日夜励んでいるように、成分や配合を研究するだろう。実験してみてほしいのは、本人の記憶との結びつきが、美味かどうかを判断するのに、どのくらい影響しているか、だ。その結びつきがどうやって形成されるかだ。

祖母の作るより「旨い」切り昆布と大豆の煮物もきっと世の中にはあるだろう。蒸し寿司だって、言ってみれば1000円札一枚で学生に売ってくれる町の寿司屋の弁当だ。それでも、今食べたいと思う蒸し寿司はあれだけだ。

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