ナイトアウト ― 2008-10-04
出張が延びなかったおかげで、The Cinematic Orchestraのライヴに間に合った。
The Cinematic Orchestraは生音と映画音楽的な人工的な音の流れをうまく組み合わせたジャズっぽいバンドで、2002年にリリースされたアルバム"Everyday"が実によかった。現代的で半分は人工的だが、夜景みたいな広がりがある。都会の音だけど、Nine Inch NailsやRadioheadの都市とはまた違う。
ライヴでは、新しいアルバムの"Ma Fleur"よりも"Everyday"からの曲の方が多く、しかも、アルバムに記録された原曲にかなり忠実な演奏だった。暗いところで明滅する光を見る行為は----大半のライヴはそうだけど----何度やっても同じように感じるので、これはきっと身体的な作用が大きいんじゃないかと思ったりするが、The Cinematic Orchestraは、音に結構な厚みと広さを感じさせるおかげで大変に気持ちよく酔っぱらえた。よく考えたら暗くて狭いところにいるんだが。都会だし。
終わって外に出たらもう終電もなく、さらにちょっと飲んだりしたのだが、渋谷の街は夜遊び以外で来ることが少ないせいか、前に渋谷を去ったときのその夜が、そのまま明けていないみたいな気分になる。深夜の渋谷にたむろしている連中の質も変わってないし。夜に出歩くのが大好きだってことを思い出した。ことにこの季節は気候もいい。仕事が終わるのが22時過ぎでも、たまには遊ぼう。
ねむい ― 2008-10-06
やばい。遊びに行こうと思いながらも週末は完全に引きこもり路線で、挙げ句体調不良で休んでしまった。言うなれば、プチ・バーンアウト。この業界ではそう珍しいことではないので、一日休暇を取ってどうにかなるなら、早いとこ休んだ方がいい。
何がびっくりするって、ほとんど本を読んでないことだ。疲れて頭に入らない、という経験は久しぶりだ。本屋に行っても読みたい本が見当たらなかったりして、読んだのは、ヒースローで買った"Bouncers"だけ。何というセレクト。
もう少し時間が必要だとわかるが、寝ていても仕方ない。次の週末には何かの予定でも作ることにする。
asshole ― 2008-10-18
『ハンコック』はまだ許せたが、『ウォンテッド』はー…と名前だけで何となく比較してしまう二本である。
『ハンコック』では、理由はわからないがとにかくスーパーマンな力を身に着けている男が、どうして俺は社会に受け入れられないんだと飲んだくれていたのを、一念発起して社会に受け入れられるべく努力する…というお話だ。ウィル・スミスはいつからか「俺様」という言葉で語られることが非常に多くなったが、今回も見事に「俺様」である。酔いどれハンコックが更正するまでは、ある意味落ち着いて観ていられた。
でもこの話、その後、なんか変な方向に転がり始めてしまう。以下は完膚無きまでにネタバレなので、一応隠しておこう。実は、ハンコックの更正に力を貸してくれたPRマンであるレイの妻メアリーは、ハンコックと同じスーパーマン一族の人間で、technicallyには「ハンコックの妻」なのだと言う。だが彼ら一族は、つがいになる相手と近づきすぎると、役目を終えて人間になるためにスーパーパワーを失ってしまうんだそーだ。…という、何かぱっとしない「ハンコックの正体」のシーケンスが続くうち、「ハンコックが社会に受け入れられるまで」という物語はどっか行ってしまうのだ。それじゃ何が残るのか?
後から考えてみれば、そこでも引っ張るためにいろいろネタが仕込まれている。多くはPRマンのレイに関わるもので、それこそが、「世界をよくしよう」というポジティブな方向性のものでもある。仕込まれているのだけれど、見ているあいだは、そこに至るまでのウィル・スミス節に気を取られて全然気がつかなかったのである。
その意味でウィル・スミスの「俺様」が裏目に出ているような気がしてならない。いや、こうして思い返してみても、そんな大層な伏線じゃなかったし、ネタとしては弱いような気がするのだが。
シャーリーズ・セロンは美人。ハンコックとシャーリーズ・セロンだけで、60分は見ていられる。残りの30分はー…そう、だから、ハンコックの話をうっちゃるつもりなら、レイ役のジェイソン・ベイトマンをもっとスター性のある役者にして、そっちも強く押し出して行くべきだったんじゃないかと思われる。
スターの役割 ― 2008-10-25
アンジェリーナ・ジョリーが今年出演した二本の映画----『カンフー・パンダ』と『ウォンテッド』は、どちらもプロットがよく似ている。以下、所々で完膚無きまでにネタバレなのだと明記しておきます。
うだつの上がらない日常にちょっと鬱々としている青年がいて、その青年に、突然「お前は実はSomebodyなのだ」という常識はずれの集団が現れる。青年はその集団に恐れと憧れを抱いているが、集団のメンバーは簡単には彼を受け入れない。挫けそうになりながらも青年は特訓を積み、その集団の非常に優れた一員となって、しかし、内部からその集団のあり方を変えてしまう。
『カンフー・パンダ』でも『ウォンテッド』でも、アンジェリーナ・ジョリーは、その集団に真に忠実であろうとする存在だ。『カンフー・パンダ』のマスター・タイガーは師匠を深く敬愛し、自分こそが龍の戦士に相応しいと思っている。『ウォンテッド』のフォックスは、フラタニティの行う殺人が正義であることを信じており、組織の掟を絶対としている。
どちらにも父親が出てくるが、その扱いはだいぶ違う。集団のボスと父親は相反する存在で、『カンフー・パンダ』ではカンフーをやるよりラーメン屋を継いでほしいと思っている。『ウォンテッド』では中盤で青年が「父親の仇」と思っていた男こそが真の父親で、彼と集団のボスは利害の不一致から対立しており、青年はボスに騙されたのだということが明かされる。
…いや、違うのは集団のボスの扱いと言うべきか。集団のボスは、『カンフー・パンダ』では正しく青年の師匠であるのに対して、『ウォンテッド』では「実は父親を殺した悪い奴」となってしまう。
それがどうした?というような話だが、『ウォンテッド』のアンジェリーナ・ジョリーがかなりつまらない役どころだったので、うん、正しいけれど予告編で期待させるほどに面白くなかったので、正しさと面白さは別の話だな…と思ってしまったのだった。『カンフー・パンダ』の面白さにマスター・タイガーはそこまで貢献しているとは思えないし、『ウォンテッド』予告編のアンジェリーナ・ジョリーは観客動員に大いに貢献しただろうが、映画が始まってしまえば、どちらかというとつまらなさに貢献しているような気も…イヤほとんど関係ないか…関係ないってのもどうかとは思うが、関係ないというのが正直なところだ。いるだけで価値があるという意味で正しくスターだ。その先があれば大女優だろうが、スターにはそんなこと関係ないのかもしれない。