臆病猫ほどよくしゃべる2008-01-31

『ひげよ、さらば』がとんでもない。『猫探偵カルーソー』読んでる場合じゃないぞ(読んだけど)。たとえば、記憶喪失の主人公ヨゴロウザをナナツカマツカの丘の野良猫たちのリーダーに仕立てようとする「相棒」の片目と、ヨゴロウザの会話。

「あんたはそれで満足なのかい。この丘の猫を一つにまとめるというのは、あんたの考えだしたことなんだぜ。このおれじゃないよ」
「だけどな、ヨゴロウザ。おまえだって、いつのまにか、その考えにおれ以上に熱心になっているだろ」
「あんたのおかげでね」
「はじめのうちはそうかもしれない。しかし、今は違うね。坂道に石を置いたのはおれだとしても、ころげていく石はじぶんの力でそうなるのだ」

あるいは疲れ切って様子のおかしい片目を心配するヨゴロウザと、片目の会話。

「あ、あんた、病気なのかね」
 片目がゆっくりヨゴロウザを見あげた。光の消えた暗い目つきだった。
「病気じゃないよ、ヨゴロウザ」
片目はじぶんにいい聞かせるように低い声でいった。
「病気というものはな、バラのとげのようなものだ。突き刺さったやつを抜けば、それでどこかへいってしまう。しかしな、この世の中には、抜くに抜けない変なとげもあるんだぜ」

いっそ映画化を…。
『ひげよ、さらば』はオールドファッションドな青臭い理想の物語であり、バディものであり老いの物語でもあり、どこかで間違ってしまった男の物語だ。片目は、突然迷い込んできた記憶喪失のヨゴロウザをそのまま自分の相棒と決め、ナナツカマツカの野良猫共同体を組織してタレミミ率いる野良犬たちに対抗しようと夢を見ている。小説中で何度も言われるように、それは夢だ。癖のある野良猫たちはそう簡単にはまとまらないし、片目は自分が思っているほど狡猾で賢い猫じゃない。その辺に初期のジョゼ・ジョヴァンニみたいな悲しさがあって、東映の任侠路線かフランスの暗黒街ものがひっそりと翻案を映画化していても驚かない。
あと、全編にちりばめられた猫ことわざがうまい。「自分のなくしたしっぽは大きく見える」「はがれた爪はもう爪ではない」「ひげの抜けはじめは、命の抜けはじめ、か。ふん。昔の猫は、うまいこというぜ」
そうやって最後には『ひげよ、さらば』という題名がどこから来たのかを知ることになるだろう。これは確かに猫たちのバラードだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://cineres.asablo.jp/blog/2008/01/31/2592478/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。