自宅療養中2008-02-05

こんなにアトピーがひどくなるのは何年ぶりだろうか。こんな理由で会社を休むなんて不甲斐なさすぎて笑う気にもなれない。落ち込んだところで治りが早くなるわけではないが、落ち込むものは落ち込むのである。

ところでブックサービスがすごい。
Amazon で倍以上のプレミア価格をつけて売られている本が「注文できません」になっていないのを見て、「ほお探してくれるんですかい」とだめもとで注文したところ、あっさり届いた。しかし痛いのは、正価で買っても相当高い本だったのが予想外に(それも二冊も)買えてしまい、財布がだいぶ寂しくなったというところだ。
しかし本来ならば、そう簡単に品切れとか絶版とかにしないでほしいのだ。確かめたわけではないが、Amazonのマーケットプレイスは本当に背取り天国となってしまったのか、ちょっと目を疑うようなプレミア価格がついていることが珍しくない。もっと慎重に吟味して本を買う人は、Amazonのマーケットプレイスを使うのはとっくにやめているんじゃないかとさえ思う。ともかく、それもこれも絶版だか品切れだか単に店頭から消えただけだか知らないが、「買えない」状況があまりにも簡単に成立してしまうからではないか。
…と書いていたら悲しくなってきた。日本の出版流通業界のあり方が今のままでいいとは到底思えないのだが、同時に「今のままでいいとは思えない」ものに対してかなりの金額を支払っているのが現状だ。音楽配信関連の問題では、「ずっとサポートしてきたがもう二度と買わない」と宣言を出すかつての熱心なファンの姿をよく目にするが、いずれ本読みにもそういう日が来るのだろうか。

ますます憂鬱になるので、ちょっとどうでもいいことを思い出そう。
久しぶりにスラヴォイ・ジジェクの本を読んだ(って結局本のことか)。『ラカンはこう読め! 』はタイトル通りラカン入門書だが、ジジェクお得意のラカン的な読みをあれこれの文物に適用してみせるという点ではこれまでの本と変わらない。構成やネタの選び方がいつもより入門書っぽいが。ネタのいくつかは使い回しで、過去、ジジェクの著作のどれかで読んだことのあるものだ。
今回読んでみて、「空疎な身ぶりと遂行分---CIAの陰謀に立ち向かうラカン」に出てくるトイレのエピソードが改めて面白い。

 西洋におけるトイレのデザインの三つの基本型は、レヴィ=ストロースが考えた調理の三角形に対応する、排泄の三角形を構成している。伝統的なドイツのトイレは、排泄物が消えていく穴が前のほうについているので、便は水を流すまで目の前に横たわっていて、われわれは病気の兆候がないかどうか、臭いをかいで調べることができる。典型的なフランスのトイレは、穴が後ろのほうについているため、便はすぐさま姿を消す。最後にアメリカのトイレはいわば折衷型、つまり対立する二極の媒介で、トイレの中に水が満ち、便が浮くが、調べている暇はない。

 ドイツ-フランス-イギリスの地理的三角形を三つの異なる実存的姿勢の表現と解釈した最初の人物はヘーゲルである。ドイツの反省的徹底性、フランスの革命的性急さ、イギリスの中庸的な功利的実用主義。(中略) トイレを考えてみれば、排泄機能の実践という最も身近な領域にも、同じ三角形を見出すことができる。魅了され、じっくりと観察する、曖昧な態度。不快な余剰をできるだけ速やかに排除しようとする性急な姿勢。余剰物を普通の物として適切な方法で処理しようとする実用的なアプローチ。

この本にはジジェクにより日本語版への序文がついており、そこでは映画『羅生門』から始まる日本人へのちょっとした論がある。

この意味で、見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう<大文字の他者>の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。

何を思いだしたって音姫ですよ。日本に暮らす女性なら誰でも一度はお目にかかったことがあるであろうあれ。排尿の擬音装置。最近では公共の場所にあるトイレでは必ずと言っていいほど擬音装置がつけられており、音姫がついていないのは古い公衆トイレだけというくらいだ。珍しくも何ともなくなったので今では何も思わないが、出てきた当初は不思議だった。排尿の音を隠すのはいいが、隠すための擬音が流れることで、排尿をしているという事実がより大きな音で周囲に知らしめられるのではないかと思ったのだ。何を隠しているかはさておき、隠そうとしていることは隠されていないというわけだ。
ジジェクには是非、この音姫の日本における普及っぷりにコメントして頂きたいものだ。ちなみに欧米圏の文物で「排尿時の音の恥ずかしさ」に言及している例は、私の知っている中ではブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』だけだ。映画じゃなくて小説の方。あれに、友達がお母さんといるところを訪ねるか何かしたら、お母さんがお手洗いに行って勢いよく放尿する音が聞こえてきて気まずい、というシーンがあった気がする。でも、これ、音を出す側じゃなくて聞く側の気恥ずかしさだなあ。