カミュはいいけどサルトルは2008-03-20

今まで気づいていなかったが、InternetExplorerで見ると表示が崩れていたみたいだ、このブログ。ひどいHTMLを書いていたのだから仕方がない、少し反省してまともに書くべく多少の努力をしよう。

矢作俊彦の『マンハッタン・オプ』 のシリーズを読んでいる。元はと言えば読みかけの『灰色の魂』を会社のデスクの引き出しに忘れて帰ってしまって読むものがなく、本屋で見かけてついつい1巻に手が伸びた。
ソフトバンク文庫は初めて買ったが、イラストが谷口ジローで、表紙だけでなく本分にもイラストが挟まれている。悪くないのだが困りもので、電車の中で読むのが何となく気恥ずかしい。コバルト文庫とかみたいで。内容はマンハッタンを舞台に「私」の仕事ぶりを描く連作短編で、元はFM東京のラジオドラマだったそうだ。各話のタイトルがジャズのスタンダードナンバーになっているのだけど、ラジオではそれぞれの曲を流したということなのかな。それはできすぎた演出か。
チャンドラー好きの矢作俊彦だけあって会話はいちいち気が利いていて、季節の描写もいちいちやりすぎだ。たとえばこんな一節。

秋は一昨日、タイト・スカートのスリットから素晴らしいふくらはぎをちらつかせ、ハドスン河を渡ってきた。六インチ・ヒールを履いた風が、クロスタウン・ストリートを歩きまわり、家々の窓をノックすると、マディスンの男たちははツゥイードを、女たちはカシミアを想って、肩を慄わせた。

次の一節はわかりやすいチャンドラーの引用だ。

フランス人は、人生のあらゆる場面に、それぞれ相応しい美しい言葉を持っていて、その約半分は正しい。正しいのは男と女に関する言葉だ

『長いお別れ』でマーロウが言うには「こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった」のだが、矢作俊彦は半分に限定している。ただ、もう半分の、つまり正しくない方の例として引いているのはよりによってジャン=ポール・サルトルの「飢えた子供を前にして文学には何ができるか」で、これは問いかけを『飢えた男を前にして、拳銃に何が出来るだろう。』にスライドさせることによって話を始めていくためなんだけど、何となく引っかかってしまった部分だ。私立探偵にサルトルは読んでほしくない。