ALL THAT JAZZ2007-11-03

部長から次の仕事についてのご意見をいただいてしまった。そもそも今の仕事は終わりかけなので、次はどうする?という問題が生じているのだ。私にとっては「(転職の選択肢も視野に入れた上で)次の仕事どうする?」であり、部長にとっては「(この会社で育てていくには)次は荒井に何をさせる?」である。選択肢を並べてみせるというのは、私の意志で選択させることで、次のプロジェクトに対してコミットさせようという意図だと思われる。…基本中の基本だ。部長から見れば私は「やりたい仕事しかやらないワガママな部下」だろうし、そういう相手に対しては、「自分の意志で選んだ」というかたちを崩すのは得策ではないと思えるだろう。
人が言うには、「本当に行きたい会社だったら自然とパッションは生じるもの」であったり、「焦ることはない」だったりするのだが…そうね。焦って決める必要はないのかしらね。選択肢を並べてみせてくれる部長じゃないが、一社拾ってくれそうだからと言ってそう焦ることはないのかもしれない。

KYOTO JAZZ MASSIVEで知られる沖野修也の『クラブ・ジャズ入門』が面白い。近くの本屋で衝動買いした。紹介されるアーティストで知らない人がいたら片っ端から試してみようと思って買ったのだが、今では「クラブ・ジャズ」と総称されている一群の音楽----しかも、ジャンルとしての特性を掴みにくい上に「ジャズ」という既存のジャンルをカテゴライズする言葉を使っているために余計にわかりにくくなっている音楽について、DJを生業とする人がどう接してきたかという本だと思う。
この本の第一章は「クラブ・ジャズの定義」と題されている。しかし、「クラブ・ジャズと自称しているが全然そうではない音楽もあれば、ジャズとして世に出たがクラブ・ジャズとしてプレイされている音楽もある」という状況に対して、明確に測定可能な定義を与えているとは言いがたい。でもそれは仕方のないことだ。たとえば『変身』はカフカの意図や1915年発表という時代背景とは関係なく、後代の読者が「あれはSFだ」と言ってもそう言えなくはないような気がするし、「ホラーだよ」と言われればそうかもなと思う。どっちにしたってそういうものだろう。どの文脈に置かれるかで個々のソースの見え方は全然違っているが、個々のソースなしにはジャンルを示すことはできない。たとえばヘミングウェイの『殺し屋』はハードボイルドなのか?ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』はノワール小説の古典のように言われることもあるが、1935年のアメリカで「ノワール」なんてジャンルがあっただろうか。大概のカテゴリは恣意的で、後付けで、「○○を作ろう」とはしない人たちの作り出したあれこれによって決定されていくようなものではないか。
だけど沖野修也はかなり本気で「クラブ・ジャズ」というものと向き合っていて、それを支えているのが何かと言えば、巻末の名曲選にある次のような認識ではないかと思う。

しかし、本編でも指摘したように、DJは「楽曲聴き」を好む人種で、曲の組み合わせによって自分の世界観を構築することによって、その存在価値が問われている。

だからディスクガイドではなく名曲選で、その前後にプレイすると効果的な選曲の例まで合わせて提示されているわけだ。
欲を言えば、前後1曲ずつ合計3曲、というのはあまりにも短い。DJと、クラブ・ジャズの数々に影響を受けて育ったミュージシャン達の違いに言及している箇所では、DJの特質として情報量、選曲のロジック、オーディエンスを長時間にわたってコントロールする力が挙げられている。「長時間にわたって」というところを「選曲のロジック」からもうちょっと見てみたかった。