noumenon2007-11-02

一社受かって一社落ちたよ。
ちなみに落ちた理由は「当社で働きたいというパッションが感じられないから」だそうだ。そういえば、私はこと仕事中は第一印象「落ち着いている」と言われることが多くて、「活動的で積極的」な印象は与えないのだった。なのに面接に際してはことさら簡潔に(=そっけなく)、落ち着いて(=冷淡に)喋ろうとしていたよ。実際は落ち着いてもいないし、簡潔に喋るタイプでもない。

帰宅したら、家主がロールキャベツを煮てくれていた。あーおいしい。しかし漢字ナンクロを解きながら「あんた『ぶつじたい』って知ってる?」というのには参った。知ってるよ。昔そういう勉強をしてたことがあるんだよ。「『ものじたい』って読むんだよ」と言って、一分でカントを要約することに。信じないでねだいぶ嘘だからねと言ってはおいたが、「物自体」という単語をあまりに久しぶりに聞いたので、一気に記憶が甦ってきた。今日も某社の面接で(ここは行ってみたら全然違ったし、相手もきっとそう思っているだろう)、「哲学科で何をやっていたか」説明させられたばっかりだったんだけど、いい加減その質問にも慣れてはいるのでルーティンの回答しかしていなかったのだ。

それにしてもロールキャベツはおいしかった。肌寒い雨が降っているし、カレー味のスープが五臓六腑に染み渡るというものだ。
あらゆることの秘訣は、けっして生活をごまかさないことだという、このきびしい、新しい知識にみたされて、ぼくはさっそく生活をごまかそうとしはじめた。 とノーマン・メイラーは『ぼく自身のための広告』で書いている。代表作のひとつ『鹿の園』が出版されたとき、勇気を出してヘミングウェイに送ってみたけれど宛先不明で転送されてきた、というくだくだしい話の中だ。ちょっと前にはこんなことも書いている。むしろわれわれは、人間になると、その罰として自分のタレントを鈍らせてしまうが、それでも人間になるほうがいっそう重要である
生活をごまかさないというのには深く感じ入ったが、ヘミングウェイが返事をくれなかったのも仕方ないような気もする。ノーマン・メイラーがヘミングウェイに送ったという手紙を読むと、「----だが、もしあなたが返事をされないなら、それとも、アマチュア作家や追従家、おべっかつかい等々に、こたえたような、うそっぱちの返事をされるなら、あなたなど糞でもくらえで、ぼくはあなたに手紙を書こうなどとは、二どとけっしていないだろう。」とか、「あなたはぼくよりも、見栄坊らしくさえおもえるので」とか書いてあるのだ。『鹿の園』は1955年でノーマン・メイラーは三十代前半、意気軒昂な若手作家だったんだろうが、もうちょっと書きようがなかったんだろうか。

これもある意味、自己PRを書いた職務経歴書を送る休職者だと思えば、その意気軒昂っぷりを少し分けてもらいたいものだけどね。

ALL THAT JAZZ2007-11-03

部長から次の仕事についてのご意見をいただいてしまった。そもそも今の仕事は終わりかけなので、次はどうする?という問題が生じているのだ。私にとっては「(転職の選択肢も視野に入れた上で)次の仕事どうする?」であり、部長にとっては「(この会社で育てていくには)次は荒井に何をさせる?」である。選択肢を並べてみせるというのは、私の意志で選択させることで、次のプロジェクトに対してコミットさせようという意図だと思われる。…基本中の基本だ。部長から見れば私は「やりたい仕事しかやらないワガママな部下」だろうし、そういう相手に対しては、「自分の意志で選んだ」というかたちを崩すのは得策ではないと思えるだろう。
人が言うには、「本当に行きたい会社だったら自然とパッションは生じるもの」であったり、「焦ることはない」だったりするのだが…そうね。焦って決める必要はないのかしらね。選択肢を並べてみせてくれる部長じゃないが、一社拾ってくれそうだからと言ってそう焦ることはないのかもしれない。

KYOTO JAZZ MASSIVEで知られる沖野修也の『クラブ・ジャズ入門』が面白い。近くの本屋で衝動買いした。紹介されるアーティストで知らない人がいたら片っ端から試してみようと思って買ったのだが、今では「クラブ・ジャズ」と総称されている一群の音楽----しかも、ジャンルとしての特性を掴みにくい上に「ジャズ」という既存のジャンルをカテゴライズする言葉を使っているために余計にわかりにくくなっている音楽について、DJを生業とする人がどう接してきたかという本だと思う。
この本の第一章は「クラブ・ジャズの定義」と題されている。しかし、「クラブ・ジャズと自称しているが全然そうではない音楽もあれば、ジャズとして世に出たがクラブ・ジャズとしてプレイされている音楽もある」という状況に対して、明確に測定可能な定義を与えているとは言いがたい。でもそれは仕方のないことだ。たとえば『変身』はカフカの意図や1915年発表という時代背景とは関係なく、後代の読者が「あれはSFだ」と言ってもそう言えなくはないような気がするし、「ホラーだよ」と言われればそうかもなと思う。どっちにしたってそういうものだろう。どの文脈に置かれるかで個々のソースの見え方は全然違っているが、個々のソースなしにはジャンルを示すことはできない。たとえばヘミングウェイの『殺し屋』はハードボイルドなのか?ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』はノワール小説の古典のように言われることもあるが、1935年のアメリカで「ノワール」なんてジャンルがあっただろうか。大概のカテゴリは恣意的で、後付けで、「○○を作ろう」とはしない人たちの作り出したあれこれによって決定されていくようなものではないか。
だけど沖野修也はかなり本気で「クラブ・ジャズ」というものと向き合っていて、それを支えているのが何かと言えば、巻末の名曲選にある次のような認識ではないかと思う。

しかし、本編でも指摘したように、DJは「楽曲聴き」を好む人種で、曲の組み合わせによって自分の世界観を構築することによって、その存在価値が問われている。

だからディスクガイドではなく名曲選で、その前後にプレイすると効果的な選曲の例まで合わせて提示されているわけだ。
欲を言えば、前後1曲ずつ合計3曲、というのはあまりにも短い。DJと、クラブ・ジャズの数々に影響を受けて育ったミュージシャン達の違いに言及している箇所では、DJの特質として情報量、選曲のロジック、オーディエンスを長時間にわたってコントロールする力が挙げられている。「長時間にわたって」というところを「選曲のロジック」からもうちょっと見てみたかった。

真夜中の電話2007-11-06

雨が降っている。
昨日、家から三十分くらいの川縁まで歩いたら、コスモスの花が満開だった。ぜんぜん気がつかなかったなと思ったのだが、それも道理だ。朝は目を閉じて音楽かニュースを聴いているし、帰りは本を読みながら音楽を聴いている。窓の外なんか眺めたことがないよ。
ぼんやりそんなことを考えつつ、昨日の晩、業界情報に詳しい知人から来たメールの内容を考えている。今回の転職活動第一フェーズは予想どおり、二勝二敗くらいになりそうなんだけど(二敗は確定した)、受かったとしても行くべきかどうかとは別問題だ。今の会社より本当にマシなのかどうか、もっといいところがないのかどうか、充分に検討しておかないと二年や三年、無駄にしてしまう。

雨が降っている。
ちょっと前に知り合いのブログで鈴木志保『船を建てる』が取り上げられていた。コーヒーと煙草という名前を持つ、鯨の解体工場で働くアシカの日々を、メランコリックに描いた話だ。昔わりと好きだったのが、どうやら復刊されていたみたいだ。
もう一度読みたいとはそれほど思っていないのだが、ひとつ気になっていることがある。あれの中に「アシカ大王に電話する」ってエピソードがあったと思う。アシカ大王の電話番号を教えてもらって、電話すると、応援している野球チームが違うか何かでがちゃ切りされてしまうのだ。あれはやっぱり、糸井重里の「神様、お電話ください」だったのかな。
高橋源一郎が糸井重里を取り上げていたのは『文学がこんなにわかっていいかしら』だったと思う。「ほしいものが、ほしいわ」は、当時の地下鉄でポスターを目にしていたため、自分が見たものがそんなふうに取り上げられるということにすごく驚いた覚えがある。で、糸井重里について何を書いていたのかはもう忘れたが、その論考の最後に、当時の最新のキャッチコピーだった「神様、お電話ください」を引いて終わるんじゃなかったか。
このコピーはあまり流行らなかったのか、糸井重里のコピーの中でも、検索結果がやたら少ない。おいしい生活の果てにほしいものがほしくなっちゃって、最後には「神様」からのお電話を待つのがあんまりだったのか。朝シャンと長電話はあったけど、インターネット喫茶と携帯電話はなかった時代の話だ。待つのはきっと夜中の話だろう。ジャニス・ジョプリンは夜中の三時まで、神様がカラーテレビを買ってくれてその配達が来るのを待っていた。

真夜中に電話がかかってくるっていうと、ロバート・コーミアの『真夜中の電話』を思い出しちゃうけどね。電話が鳴っていて、誰からかはわかっている。だけど受話器を取ることはできない。

「きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」2007-11-07

え、いきなり明日ファイナルやるの?
というわけで明日、条件の交渉がメインとなる面接に行くことになりはしたが、印鑑を持ってくるようにと言われて今からびびってしまう。やたら展開が早いとちょっと警戒してしまう。
ジョエル・オン・ソフトウェアのジョエル・スポルスキーは、どこかで「採用面接をするには最低六人と会うこと、そして六人のうち五人が『応募者の同僚となるかもしれない人物』であること」というような話を書いていた。面接した「未来の同僚」のうち二人がNOと言ったら採用しない、と。
これはすごくいい面接方法のように思うけれど、今のところ、そのような面接は一度も行われていない。つまり「同僚になるかもしれない人」には会ったことがない。出てくるのはいつも「同僚になるかもしれない人たちのボス」だ。働いている人は忙しいし、そんなことに時間を割きたくはないだろうが、その会社でどんな人が働いているのかわからないというのは、受ける側としてもすごく不安だ。会わせてくれって言ってみるべきなのかな。迷う。

こんなことをやっているから、最近、睡眠時間がやたらと短くなってしまうのである。

私は昨今人気のない職業であるSEをやっていて、デスマーチと言われる過酷なプロジェクトの経験もないではない。そういうプロジェクトにいる間は、同僚がどんな人たちなのかは本当に大事だ。何せ少なく見積もって週の六日以上、一日の十五時間以上を同僚と過ごすことになる。三食すべて同僚と食べる人だっているかもしれない。朝はデスクでサンドイッチをかじり、昼は近くのうどん屋、夜は駅前のラーメン屋に休憩を兼ねて出かけ、戻って終電まで仕事する、というように。電車のあるうちに帰れるだけマシな方だ、と過酷な勤務自慢さえ始まる。
それについて最近思い出すのはクリス・ヘッジスの『本当の戦争』で書いてあった戦友の話だ。『本当の戦争』は、戦争についての437問のQ&Aが載っているという本で、これの435問目がこうだ。

戦友と連絡を取り合うものでしょうか?

「それはないだろう」とクリス・ヘッジスは答えている。「仲間意識は危険や共通の目標を共にし、毎日肩を寄せ合っていたからこそ生まれたのだ。友情とよく取り違えられるが、このふたつはむしろ正反対のものだ。」そうかもしれない。あれほど長い時間一緒にいて、何度も飲みに行った相手でも、今では連絡のない相手は多い。連絡があっても、だんだん疎遠になっていくことも多い。クリス・ヘッジスは続けてこう書いている。「J・グレン・グレイは、友情と仲間意識の基本的な違いは、友情が"自意識の高まり"であるのに対し、仲間意識は"自意識の抑圧"を根本に置いていることだという。」

『長いお別れ』で、テリー・レノックスには戦友がいるが、フィリップ・マーロウにはいなかった。マーロウはこんなことを言っている。僕は今年42になるまで、自分だけを頼りに生きてきた。その為にまともな生き方が出来なくなっている。 …あれ、マーロウって戦争は行かなかったんだっけか。

Learn the way to Hell2007-11-09

25%増しの年収が記された同意書を前に、窓の向こうに日暮れの町並みを眺めながら条件の説明を聞く。25%か。魅力だな。抗いがたい魅力だ。だがこの先に待っているのは-----という確信に近い予感があって、素直にハンコを押したりは到底できないのである。
話の内容を総合してみよう。すばらしいお給料とすばらしい待遇。そして話を総合してみれば、モラルを低下させるインセンティブに満ち満ちているじゃない。倫理的でないことを強いられるだけでなく、他人にも強いることになるのは目に見えているじゃないの。今さらそんなことを言っても甘いだけなのかもしれないが、それが嬉しいはずはない。激務だけを予想してためらっているんじゃないんだよ。

善意が敷き詰められたハイウェイを熟知することが天国への近道だとしても、深く帽子をかぶったスティーヴのように注意深くても、この道を行くのはちょっと危険すぎやしないか? 気がつかないうちにくぐった門に、よく見たら「いっさいの希望を捨てよ」と刻んであったりしない?

But I'm not ready, no I'm not ready for you.

酔っぱらいは怪我をしない2007-11-10

金曜日は久しぶりに酔っぱらった。三人でビールとスパークリングワインと白ワインを何本か。その後もヴィクトリアンビターとか飲んだな。いやー赤坂からどうやって帰ってきたんだろう。電車の記憶が一切ない。しかしおかげさまで熟睡できたし、二日酔いにもなっていない。よかったよかった。
「労働において他人の好意をあてにするなってんですよ!」とか「パッションが足りないらしいですー知るかー!」とか言ってたような気がするが…とりあえず一緒に飲んでた先輩に謝罪のメールを出しておこう…。

帰ったら『ウォッカ・タイム』が届いていた。Amazonマーケットプレイスで購入したもの。麻雀漫画の片山まさゆきが80年代の半ばに書いていたソ連共産党ギャグマンガで、時代的にはチェルネンコからゴルバチョフのあたり。かのクレムリン「20世紀ハゲフサ交代理論」はここが出所だったのかー知らなかった。(注:ソ連の最高指導者はレーニン以降、ハゲとふさふさが交互に来ることになっている、というもの。レーニンがハゲ、スターリンがふさふさ、フルシチョフはハゲ、ブレジネフはふさふさ…そしてプーチンはハゲである) しっかし、ゴルバチョフもレーガンも本当に似ていないなあ。言われなかったら絶対にわかんないよ。

そういえば、ちょっと前のフィナンシャル・タイムズで、ヨーロッパとは別の道を行くロシアと中国の記事で、ロシアは獰猛そうな熊、中国はドラゴンとして表されていた。ロシア人を熊というのはアメリカ人をヤンキーと言うようなもんで、自分で言うには問題ないが外部の人間が言うべきではないものだと思っていたのだけれど、中国=ドラゴンというかなりかっこいい表象と並んでいると、そうでもないのかもと思えてくる。
でもこの記事はきっと、「ロシア=熊って絵を描こう、じゃあ中国はどうする?」という発想でイラストをつけたんじゃないのかなあ。

ちなみにプーチン政権下の教科書では、初代フサであるスターリンは「ソ連のもっとも成功した指導者」とされてるって本当?

映画的悪夢2007-11-11

そういえば十二月からは、今の会社で別のプロジェクトに行くことが決まってて(申しわけないが道半ばで抜ける気満々だがね!)、そこではネット環境がないのである。…まあ、それも初めてってわけではないが、ここ半年くらいでニュースソースをがらっと入れ替えた結果これまで以上にWEB依存になったっていうのもあって、ネットに接続できないと本当につらい。雑誌を持ち込むことも考えるけど、職場の人には何を読んでるかあんまり見られたくない。もちろん職場では携帯も禁止だ! 前の晩に印刷しまくるしかないのかなあ。
あー…転職活動を引き続き継続していかねば。しかも熱意を持って継続していかねば。嫌でも熱意を持つけど。

次の仕事のことを考えると、いちばん大切なのは怒りを予期しないことだ、というのがわかる。
過去の類似例から「この人たぶんこう切り返すんだろーなあ」とネガティブな推測をし、それが実現すると、本当にうんざりして沸点が低くなりやすい。私はもともと沸点が低いので、さらに沸点を低くする必要はまったくない。それに、沸点が低くなって私が相手に対して好意を持たなくなると、状況はより悪化する。状況を改善するには、私が怒るよりは「相手が自主的かつ望んで」行為するように持っていくしかない。それはものすごく手間暇がかかる上(何よりのコスト)、私にはそれをやるインセンティブがあまりないのがつらいところだ。何せこっちは転職したいんだもの。

さて、とは言いつつ、今週も今となっては「早まったか…」な、転職コンサルに乗せられたような気分になる会社の最終面接が一個あるのである。来年度までに決まればいいさ。

さっき見た夢の話。居間でうたた寝していたら、いつの間にか『スキヤキウェスタン ジャンゴ』みたいな夢を見ていた。
どうやら寒い地方の寒い村で、いろいろと口には出せない暴力的な来歴がある場所らしいのだが、そこに怪しい押入があるのだ。押入と言っても幅が二十メートルはありそうなもので、中には、上段と下段それぞれに、黒髪の若い女の子達が猫みたいにうずくまってこちらを見ている。奥は暗くてまったく見えないけど、みんな粗末なものを着ているのが肩のあたりで少しわかる。目は、『300』でレオニダスが通過儀礼の獲物とする狼みたいに変に光っていて、もはや人間じゃないものだということは誰の目にも明らかだ。
彼女らはどうやら、このあたりで、殺されたり強姦されたりして命を失った娘たちらしいのだが、この見世物の口上を述べるおっさんによれば、彼女たちは自分を殺したのが誰なのかを教えてくれるんだと言う。しかしどう見ても人間ではない。
それでも何人かの女性が、なくした娘の名を呼びながら暗い押入を探しまわり、誰かの名前を耳打ちされている。しかしひとりの中年女性が娘に駆け寄ったところ、彼女はするすると奥へ引っ込んでいき、代わりに現れた『パンズ・ラビリンス』のペイルマンみたいなやつが、中年女性をぱくっと頭からかみ砕いてしまった。

私はこの変な映画には続きがあるんだろうかと思っていたが、続きはなかった。
『300』はこのあいだDVDを衝動買いしたし、『パンズ・ラビリンス』はペイルマンが気に入ってしばらく見ていたし、『ジャンゴ』は美術と舞台設定はよかったし、つまり、最近見たものの混成だ。人間じゃなくなった娘たちのホラー話は、岩井志麻子が面白いって聞いたせいかもしれない。
うたた寝しながら映画の夢を見るくらいなら、素直に『ボーン・アルティメイタム』を見に行けばよかったよ。

Festive Minor2007-11-14

…お断りしたつもりだった会社からありがたくも(なのか?)再度面談のオファーを頂いてしまった。えーマジで。何でそんな熱心なのさ。

知るかよ!という気分で近所のバーで飲んでたら、プロジェクターでジェリー・マリガンの評伝をやっていた。ジェリー・マリガンは1953年、麻薬で三ヶ月ほど実刑判決を受けるのだが、その後のキャリアは順調には行かず、「ジャズ好きの売春婦の映画」で端役をやったりしていたと言う。えーそうなの?それって58年の"I Want To Live!"かなあ。この頃はまだマリガンも勢いがあったのだと思っていたが。ちなみにこの映画の邦題は『私は死にたくない』になってて、女性死刑囚の話だからだろうが、何となくしみじみしてしまう。
マリガンが逮捕されたときにはベイカーも一緒で、ベイカーは釈放されたのにマリガンは三ヶ月の実刑判決だったんだと言う。

ジェリー・マリガンはちょっとスティングみたいな風貌の、伊達なスーツのよく似合うバリトン・サックス奏者だった(年がいってからは髪と髭を伸ばして、それこそ年のいったヒッピーみたい)。西海岸の白人学生が熱狂したというウェスト・コースト・ジャズの代表格と言われている。マイルス・デイヴィスの『クールの誕生』などにも参加しているし元はニューヨークの生まれだから、経歴じたいは「西海岸のクールな白人ジャズ」という印象とは一致していない。どこかジェイムズ・ディーンみたいな甘い風貌のチェット・ベイカーとピアノなしのカルテットを組んだあたり、ちょっとクールでだいぶ軽い音の「洗練された白人のジャズ」を売り出したいレコード会社と利益が一致したんだろう。50年代のL.A.というと私にとってはジェイムズ・エルロイのL.A.四部作なのだが、その三作目『L.A.コンフィデンシャル』の映画ではマリガンとチェット・ベイカーが組んでいた頃の曲がいくつか使われている。
マリガンは60年代の音楽にはついていけなかった、と伝記ではやっていた。彼はロックを好きにもなれなかったし、かといって60年代のジャズにもついていけなかった。コール・ポーターみたいになりたかったんだろうけどね、という当時を知る人の証言が切ない。映画に出た金で音楽をやっていた、とも。

60年代のマリガンのことは知らなかったが、チェット・ベイカーのことなら多少は知っている。それほど好きではないが、何せ有名なのだ。マリガンが逮捕されたことでカルテットが解散した後、チェット・ベイカーは『チェット・ベイカー・シングス』などで名声を博す。甘い声でぼそぼそと歌う「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」、ナイーブできらきらした黒目がちの目、「一躍スターダム」というやつだ。ただし転落も始まっていて、どっぷり麻薬に浸かった挙げ句、麻薬絡みのトラブルで歯を全部叩き折られたという壮絶な話が有名だ。死後封切られた自伝映画のタイトルが"Let's Get Lost"。

マリガンは53年に捕まった後、禁断症状に耐えて麻薬をやめたようなことを評伝では言っていた。ベイカーは捕まらず、見事にロストした。名声でいったらベイカーの方が上だろうが、長生きしたのはマリガンだ。ひょっとしてそういう話だったのか。

実存的2007-11-17

さて…どうしたものかね、本当に。ローリスクローリターンとハイリスクハイリターン、だけどハイリスクなんか後五年も経ったら取りに行けなくなるんじゃないかという気がしてならない。順番を間違えたなぁ、本当に。ハイリスクハイリターンを取りに行って、ダメだったらローリスクの方へ行けばよかったのだが、ローリスクの方から先に受けてしまった。
ま、いずれにしても月曜日には返事をしなくちゃならないんだが。

というわけで、今から念願の『ボーン・アルティメイタム』見てきます。
しかしここのところ海外ニュースをやたらチェックしているせいか、日本公開の遅さがだんだん嫌になってきました。『ボーン・アルティメイタム』ってもうamazon.comではDVD売ってるじゃありませんか…映画を観に行くのも高いしさ。

さて、出かける前に、今日読み始めた『パブロフの鱒』について一言だけ。ていうかまだ、著者の友人による序文しか読んでいないのだけれど、「タバコを吸うスモールマウス・フィッシャーマンとツキの関係について」なんて章題を見るだけで楽しそうだ。
序文を書いているパトリック・F・マクマナスは、著者のポール・クイネットについてこう書いている。クイネットは実存的なフィッシャーマンだ。それは、本の最後の章で明らかになる。ここで彼は、地平の向こうから早足で近づいてくる世界の死について語り、死がやってくる前にあと何度かキャストしようとする。
あと何度かキャストしようとするフィッシャーマン、あと何度か自模ろうとする雀士、あと何度か7を揃えようとするスロッター、あと何度か凧を揚げようとするカイトフライヤー。
昔『パチスロ115番街』で、裏路地で座り込んでウィスキーをラッパ飲みする権藤は「俺はあと何本瓶を開け、何人女を抱き、何回、7を揃えるんだろう」と言っていた。で、雀士のことを考えたのは、『天牌』の41巻で、三國健次郎が「思えばここ何十年も牌を握り続け/ただの一度も癒える日などなかったな」などとやっていたからだ。

私はさしづめあと何ページかめくることになるんだろうか、と部屋を見渡して、あらためて、「仕事って…」と考えてしまった。昨日買おうとして買わなかった『バタフライハンター』の表紙が頭をよぎったせいだと思う。

ジャッカルはどこへ消えた?2007-11-19

お断りしてきました…!
あー疲れた、ちょっと気力が萎えるくらいに疲れた。でもこれで、転職活動はまた一から出直しかと思うと、それはそれでびっくりするものがある。うわーまた一からやるのかぁ。次はもう少しうまくやれるといいんだが。パッションと能力が足りないと言われないように。目標は年度が変わるまでに決めること。…また忙しくなるなあ。

『ボーン・アルティメイタム』で完結したジェイソン・ボーン三部作は、もともとはロバート・ラドラムの代表作だが、映画に関して言えば最初の設定とタイトル以外はぜんぜん違う話である。が、それは別にいいのだ、面白いから。映画版の欠点としては、アクションのカット割りすぎカメラ動きすぎで、何をやっているのかわからないところ。めまぐるしくてついていけないことがある。
全体としてはとても面白い、三部作の三作目までこのテンションで引っ張ってこれたのもすごいところだ。
マット・デイモン演じるジェイソン・ボーンは、判断がものすごく速くて的確で、何をするにも手際がいい。スマートというのはきっとこういうことを言いたいんだろうな、と思う。もちろん知識や語学力や(ここ重要)記憶力も大事だが、何にも増して判断力こそがスマートさなのだ、とこの映画は主張しているように見える。この映画が主張しているというか、アメリカ的な知性とは---あるいはその源流としてのヨーロッパもそうだろうけど---機に応じて対応できる柔軟性のあるプラグマティックな知性なのか、と思わされる。
あ、あと、これはさすがに『ボーン・スプレマシー』を見ておいた方がいい。ということは『ボーン・アイデンティティ』も見ておいた方がいいんだけど。

ロバート・ラドラムの原作は、昔、母親がよく読んでいた。だから読んだ覚えはあるが、ほとんど忘れてしまって変に細かいところだけ覚えている。ジェイソン・ボーンが新しく買ったシャツに湯気を通して新品の匂いを消していたシーンとか。しかしよく考えるとあれか、当時から私の理想のヒーロー像はジェイソン・ボーンとかジャッカルとかジョン・クリーシー(クィネル『燃える男』)とかなのか、ひょっとして。そりゃダメだ。