「きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」2007-11-07

え、いきなり明日ファイナルやるの?
というわけで明日、条件の交渉がメインとなる面接に行くことになりはしたが、印鑑を持ってくるようにと言われて今からびびってしまう。やたら展開が早いとちょっと警戒してしまう。
ジョエル・オン・ソフトウェアのジョエル・スポルスキーは、どこかで「採用面接をするには最低六人と会うこと、そして六人のうち五人が『応募者の同僚となるかもしれない人物』であること」というような話を書いていた。面接した「未来の同僚」のうち二人がNOと言ったら採用しない、と。
これはすごくいい面接方法のように思うけれど、今のところ、そのような面接は一度も行われていない。つまり「同僚になるかもしれない人」には会ったことがない。出てくるのはいつも「同僚になるかもしれない人たちのボス」だ。働いている人は忙しいし、そんなことに時間を割きたくはないだろうが、その会社でどんな人が働いているのかわからないというのは、受ける側としてもすごく不安だ。会わせてくれって言ってみるべきなのかな。迷う。

こんなことをやっているから、最近、睡眠時間がやたらと短くなってしまうのである。

私は昨今人気のない職業であるSEをやっていて、デスマーチと言われる過酷なプロジェクトの経験もないではない。そういうプロジェクトにいる間は、同僚がどんな人たちなのかは本当に大事だ。何せ少なく見積もって週の六日以上、一日の十五時間以上を同僚と過ごすことになる。三食すべて同僚と食べる人だっているかもしれない。朝はデスクでサンドイッチをかじり、昼は近くのうどん屋、夜は駅前のラーメン屋に休憩を兼ねて出かけ、戻って終電まで仕事する、というように。電車のあるうちに帰れるだけマシな方だ、と過酷な勤務自慢さえ始まる。
それについて最近思い出すのはクリス・ヘッジスの『本当の戦争』で書いてあった戦友の話だ。『本当の戦争』は、戦争についての437問のQ&Aが載っているという本で、これの435問目がこうだ。

戦友と連絡を取り合うものでしょうか?

「それはないだろう」とクリス・ヘッジスは答えている。「仲間意識は危険や共通の目標を共にし、毎日肩を寄せ合っていたからこそ生まれたのだ。友情とよく取り違えられるが、このふたつはむしろ正反対のものだ。」そうかもしれない。あれほど長い時間一緒にいて、何度も飲みに行った相手でも、今では連絡のない相手は多い。連絡があっても、だんだん疎遠になっていくことも多い。クリス・ヘッジスは続けてこう書いている。「J・グレン・グレイは、友情と仲間意識の基本的な違いは、友情が"自意識の高まり"であるのに対し、仲間意識は"自意識の抑圧"を根本に置いていることだという。」

『長いお別れ』で、テリー・レノックスには戦友がいるが、フィリップ・マーロウにはいなかった。マーロウはこんなことを言っている。僕は今年42になるまで、自分だけを頼りに生きてきた。その為にまともな生き方が出来なくなっている。 …あれ、マーロウって戦争は行かなかったんだっけか。